「ヒューマン」NHKスペシャル取材班

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★★★ 角川書店

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副題は「なぜヒトは人間になれたのか」。何年か前のNHKスペシャルを書籍化したもののようです。テレビ畑の人ってのは、あんまり文章がうまくないなあ。ワンパターン。品がない。また映像で説明したものを文字にしているので、どうしてもわかりにくい。そうした欠点は多いんですが、ま、いい本だったと思います。


要するに、人類が出アフリカしてから世界中に拡散し、増殖をし続けた結果としてどうなったのか。脳になにか変化があったのた。あるいは発展には「なにか人間らしさ」がかかわっていたのか。そういう面倒なテーマです。「心」の解明。

ごく大雑把に言うと、いまでも古い形で生存している狩猟民族たちは「ケチ」と「自慢こき」を極端に嫌う。場合によっては集団で制裁を加えるし、たびかさなると集落追放とか死刑にもする。制裁を加える場合、構成員みんながやることが重要らしい。個人対個人の関係にしないためです。

ケチと自慢こきがなぜいけないのか。その理由は明白で、狩りの獲物を誰かが余計にとるようでは集団生活が崩壊してしまう。とった肉は男も女も完全平等に切り分ける。分けてもらう人は絶対に礼なんか言わない。獲物をとってきた男も偉そうにはしない。「オレが殺した鹿だぜ」と自慢するような奴は(潜在的に獲物の取り分を主張している)やはり平等の精神に反している。

ま、狩猟で得た食料ってのは、溜め込むことができません。すぐ腐ります。自分だけ余計に溜め込んでもたいしたメリットはない。ちょっと余計に取り分を得るより「あの人は公正なやつだ」と思われたほうが得策。

つまり人間は周囲の「目」を意識して生きてきた。「コインを入れて飲んでね」と紙を置いた無人のコーヒーコーナー。もちろん金を払わない横着がけっこういます。でもそこに「目」の絵を飾ると、不思議なことに金を払う率が一気にあがる。現代人でも、見られているという意識があると、勝手なことができなくなるらしい。

どうして公平が必要なのか。それは助け合いの文化によるんだそうです。石器時代、果実を拾えた女もいれば、拾えなかった女もいる。どこかの地域の獲物が不作になっても、隣の地域では獲物がすこし多いこともある。完全独立採算で生活する連中と、可能なら援助しあう連中を比較すると、助け合い文化のほうが生き延びる確率が高くなるんだそうです。

ちなみにチンパンジーは時として「要求されれば相手を助ける」行動もとります。しかし自分から「気をきかせて援助する」ことはしません。この点でチンパンジーと人間はあきらかに違う。「明確な要求がなくても援助してあげる」のが人間です。

石器時代にもみんなが珍重した貝や石のネックレス、これも単なるファッショではなく「これだけプレゼントが多いんだぞ」という証拠だったとか。ネックレスは自分で作って自分で飾るものではなく、誰かにプレゼントされるもの。したがって何本ものネックレスをしている人間は交際範囲が広い。交際が深い。困ったときにも頼れるような親戚や友人の数です。

そういうわけで、そもそもの人間は助け合って暮らしていた。高邁な心なんかじゃなく、そうでないと生き延びることができなかった。助け合うことのできるDNAだけが成功したんでしょうね。

そうそう。アフリカ地溝地帯で樹上から草原に下りた原初の人類。けっこう上手にやってきたような印象もありますがとんでもない。ほんんどは上手にやれませんでした。どんどん食われてしまったり飢えたり。

そういえば昔「ヒトは食べられて進化した」という本を読んだことがあった。人類の歴史とは、食われる歴史であった。納得できる主張でした。猛獣に食われ続けた人類、それで言語能力を発達させたのかもしれない。あっちの山には豹がいるぞ。こっちの山には食い物があるぞ。この棒を使うと強くなれるぞ。一人じゃ無理だけど三人ならシカを狩れるかもしれない。

こうして人類は進化してきた。集団定住がすすんで、やがて農耕が普及してようやく「食料をためこむ」ことができるようになった。つまりは貧富の差がうまれ、身分が分けられ、平等の精神はそれほど重要視されなくなった。現代社会です。

そうそう、思い出した。飛び道具の話もあったな。初期なら投擲具の普及。やがては弓。獲物を狩るにも画期的だったし、戦争にも役立つ。棍棒で敵を殺すのと飛び道具で殺すのでは心理的な負担がまったく違うらしい。おまけに原初の部族社会というのは「身内には親切「「隣の部族は敵」というもので、人間の心のなかにはずーっと「親切にしたい」という心と「やっつけてやりたい」という心が共存している。どっちがどう発露されるかはケースバイケース。

ま、そんなふうな本でした。もっといろいろ書いてあったんですが、ほとんど忘れた。歳をとっての読書ってのは目の粗いザルで水をすくっているようなもんです。ガバッとすくって滴が残る。その滴が、ま、知識というか、わずかな記憶になってくれる。