「政治の起源 上」フランシス・フクヤマ

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★★★ 講談社
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著者の名前はなんとなく知っている程度。もちろん初めて読みました。日系アメリカ人なのかな。

うん、良著ですね。副題が「人類以前からフランス革命まで」。上巻は中国、インド、イスラムの3つの地域(プラス西欧少し)を概説して、国家と政治体制を論じています。堅い内容ですが、叙述は論理的なので、意外に読みやすい。

簡単に説明するのは難しいですが、「国家」「法の支配」「説明責任」という3要素が必要なんだそうです。この3つを兼ね備えていればその国家は健全に発展する。国民はまあまあ文句いわずに生きていける。

こういう場合、たいていの本はメソポタミアあたりから始まって、ギャシャ、ローマと論評していきます。定番ですね。でもそれって、西欧型の自由民主国家が最高モデルであると最初から規定していない? 要するに今の自分たちのスタイルを規範にして、その規範を世界中にあてはめてる

ということで、フランシス・フクヤマの場合はまず中国をながめます。まっとうな「国家」を作り上げたのは秦です。世界で初めて、しかも画期的に早い段階で国家ができあがった。インドもメソポタミアも、西欧も、国家らしい国家なんてずーっと存在していなかった。

ただし中国の場合、国家はあったけど「法の支配」には問題があった。また政府による「説明責任」もなかった。専制国家がすべてを支配し続けてきたわけです。もちろん法はあったけど、それは国家(皇帝)の恣意的なものでしかない。国家だけが存在していた。文句いうやつは刑に処す。

その系譜の上に現在の中国もある。中華人民共和国は非常に堅固な国家です。ただし法はあってないようなもので、党が法を決める。もちろんその度に民意をはかる必要なんてまったくない。この点で、危うい部分があるんじゃないだろうか。民意(民衆のコンセンサス)に逆らった政治を続けると、いつか反乱がおきる。事実、中国三千年は、そうした連続の歴史です。

ちなみに「国家」には官僚制が必須です。官僚というのは、家柄とか部族内の引きではなく、あくまで能力によって仕事をします。その官僚たちが「仲間意識」で結託しはじめると、官僚制国家は破綻します。いまの中国、このへんも危ういところがありますね。

あっ、ちょっと整理しておきます。
「国家」とは、たぶん政府の意思がすみずみまで通って実行できること。
「法」とは、たとえ皇帝や政府であっても、ルールを勝手に破ることはできない。
「説明責任」とは、政府が問答無用で住民を追い出しての大規模ダム造成はできない。


こんなことと,適当に理解しました。

で、次はインド。なぜインドはなかなか健全に発展しないのか。インドの場合は社会(民意。民衆の文化)がべらぼうに強いエリアらしいです。そして法ですが、バラモンを頂点とするカースト制度のような社会体制が、圧倒的に支配している。クシャトリアが一応は国家を経営しようとしますが、彼らも決してバラモンには逆らえない。つまり国家に権力が集中していない。ただしバラモンは国家を支配しようとはしません。

インドに専制国家らしい国家が成立したことはほとんどない模様です。実質はずーっと部族やカーストの連合体だった。だから国家が強権発動して何かおしすすめようとしても、スムーズに運ばない。差別構成を破壊しようとしても、猛烈な抵抗に会う。今後もなかなか難しい。

で、イスラム。イスラムで比較的成功したのはオスマン帝国だけだった。その前にはエジプトも一応は成功しました。オスマンはバルカン付近の白人奴隷イエニチェリ、エジプトはたぶん黒海のあたりからさらってきたマムルーク。この連中を使ってそれなりの軍や官僚制国家を建設した。なぜ奴隷を使ったのかというと、部族や家族のしがらみがないからです。イスラム圏ってのは、この「しがらみ」がべらぼうにに強い地域みたいですね。

勝手な想像ですが、アラビア半島あたりのひとつの部族(たぶんムハンマドの系譜)が政権をにぎると、当然のことながら仲間内で中枢を固めようとする。そのうち違う部族も勢力を伸ばしてくる。部族と部族の権力争い。自分たちの権益だけが大切なんで、天下国家なんて言ってる場合じゃないです。それを防ぐためには、皇帝や国王だけに忠誠を誓う「奴隷」が役に立つ。そういう意味でイスラムの奴隷登用制ってのは画期的に賢かった。

ただし、奴隷も時間がたつにつれて「仲間」を大切にしはじめます。中国の宦官と同じですね。子供に資産は残せないタテマエなのに、うまく法を潜り抜けて権益継承を画策する。こうして皇帝・国王の力が失われていく。国家の崩壊。

で、最後は西欧。代表は英国ですか。こっちは何故か父系の部族主義が早い時期に崩壊したらしい。フクヤマはその理由をカトリック教会においています。つまり布教にいそしんでいた坊主連中が交差イトコ婚を「いけませんぞ」と阻止した。父系の交差イトコ婚とは「母系の従兄弟とは結婚できるが、父系の従兄弟はダメ」というルールです。また「死んだ兄の嫁さんとの結婚」なかんも嫌った。

なぜカトリックの坊主が交差イトコ婚を嫌ったのか。教理が理由かと思われがちですが、おなじキリスト教でも東方教会ではそんなことなかった。経済的な理由じゃないかとフクヤマは推察しています。

で、結果的に部族内の結婚が減ります。こうしてゲルマン風の厳密な父系社会が弱体化すると、結果的に「個人」が伸張する。ま、「家族・部族」が頼りにならないなら「個人」になりますわな。女性の権利がけっこう強くなり、女性が財産権を持ったり、子供が女系のファミリーネームを名乗ったり。

結婚の機会のない独身女性は遺言で修道院に財産を寄付する。個人のものなんだから、寄付して悪いか! 資産が「部族・家族」から離れて、教会のものになったわけです。時がたつにつれて修道院の握る資産はべらぼうなものになった。

こうして西欧型の個人社会が誕生。たまたま権力を握った個人は「貴族」になったんだろうと思います。各地に貴族がいっぱい誕生して、豊かな貴族と貧乏な騎士は契約をむすび住民を支配して封建制。各地に乱立。だから国王が権力を集中させようとする試みは非常に困難をきわめた。

そうそう。こうした社会(特に英国)では個人間のイザコザを調整するためのコモンローが重要な意味を持ちます。社会的なコンセンサス。だからいきなり国王が偉そうに命令しても、それに逆らう動きがかならずある。そういう意味で西欧型国家の発展というのは、あくまで西欧型でしかない。


正直、言葉にまとめるのは大変です。あちこち大切なことをいっぱいこぼしてますが、だいたいこんなふうな筋道だったような気がします。ようやく上巻が終わったので、今度は下巻も借り出してきますか。正月使って、ゆっくり読むかな。