Book.16の最近の記事

今年は雑読エントリー数が75。少ないです。★★★★評価なんてあったかな?と検索かけてみると、それでも一応はありました。えーと8冊ですか。ま、そんなもんでしょう。


「三四郎」 夏目漱石

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なんで読もうと思ったのやら。田舎青年が東京に出てきてマゴマゴする姿が楽しい。気負いやら気後れやら狼狽やら。青春小説ですね。そうそう、なぜか人気らしい「坊ちゃん」、こっちを青春小説と称するのは奇妙な気がします。ついでには言えば「心」もあまり感心しません。漱石らしくない。

ただ若い頃の読み方と年取ってからでは変わりますね。子供の頃は美禰子さんが神々しく映った気がします。落ち着きはらって胆がすわって、若い女とは思えない。小説なんだから当然、三四郎と美禰子は恋愛関係になるんだろうと思っていたら、あれれ、なんか変だなあ。

人生経験経てから読むと、なーんだ、若い三四郎はからかわれているんだ。からかうという言い方は少し違うかな。要するに美禰子に振り回されている。ただし美禰子が自覚して男どもを振り回しているとは限らない。天然自然、それが「女」なのかもしれない。三四郎がグイッと迫ったら、ひょっとしたらの可能性があったかもしれないし、ダメだったかもしれない。

野々宮さんの妹でしたっけ、頭の鉢の開いたよし子。どこにも美人と書かれていないし、よし子が三四郎に好意を持っているとも書かれていない。でも読んでいるほうとしては、勝手にそう受け取ってしまう。面白いものですね。こういう小説はやはり★★★★にするしかないです。



「醒めた炎 木戸孝允」村松 剛

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久しぶりに全巻通して読みました。とにかくマメで気がついて親分肌で忙しい人だった。充実しているともいえるし、生き急ぎすぎたともいえる。享年45。イライラして胃を悪くして、たぶん怒り狂いながら死んだ。

何回も書いてますが、明治の最初の10年間、よくまあ国家の形を保てたものです。薩長の政治家・首脳はみんな若僧で思いつきで自分勝手に動き回って、よくまあ国が潰れなかった。酷税に苦しんだ国民、よくまあ我慢した。もちろん暴動や蜂起もあったようですが、組織だったものに発展しなかったのが不思議なくらいです。明治維新とこの明治初期、ものすごいラッキーに恵まれたんでしょう。

話は違いますが、最近は関ヶ原の勝敗も、どうも「運」の固まりだったような気がしてきました。事後評価としては西軍の戦意のなさとかグズグズぶりが強調されますが、双方の陣構え図をみると、どう考えたって家康が突出しすぎている。本陣のあった桃配山ってのは、常識外れに西に寄った場所なんです。わざわざ自分から袋のネズミになっている。ずーっと東の南宮山にいた毛利とか長宗我部なんかが、もし気を変えて(可能性は十分ある)その気になれば完全な包囲・殲滅戦になっていた。

ただ、実際にはそうならなかった。吉川広家は動かなかったし、広家が動かないので毛利秀元も山の上に留まっていた(宰相殿の空弁当)。気の利かない長宗我部もボーッとしていた。そして決断を伸ばしていた小早川も最終的には動いた。ま、そういうことです。結果的には「さすが神君」と家康は祭り上げられますが、本当はかなりヤケだったんじゃないか。イチかバチかの賭が当たった。

大きな戦とか国家運営とか、たまたまの偶然とかラッキーがあんがい大きな要素になるのかもしれないです。ユゴーのワーテルロー戦評価に通じますね。前日からの雨で砲車が動けなかった。援軍として駆けつけるべきグルーシー元帥が気の利かない男だった。気圧の具合でお腹の疥癬が悪化したウンヌン。


「大聖堂」レイモンド・カーヴァー


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村上春樹がよくひきあいに出すレイモンド・カーヴァーの短編集です。

どういう筋でどういう内容・・と詳細を書いても仕方ないような作家ですね。ひたすら雰囲気だけで読ませる。これといってオチがあるわけでもないし、特に叙情的というものでもない。ほんと、説明しにくいです。そうそう、表題作の「大聖堂」は、あんまり好きになれませんでした。

ちなみに書かれている題材はほとんどがアル中、離婚、失業などなど。日常が少しずつ壊れていく。読後感は悪くないけど暗いです。4評価は甘くて、実質的には3と4の中間くらいかな。




「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」矢部宏治

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故ハマコーが喝破したように「アメリカ様に逆らえない」はなんとなくの常識ですが、では日本は米国の植民地なのか。そこまでではないにしても「準属国」なのか。

実際には、ことあるごとに米国や米軍が口出ししてくるわけではないようです。そこまでは露骨ではない。しかし「安保法体系」なるものが戦後の日本を支配してきたのは事実。具体的には日米安保とか地位協定とか密約とか、細かなことなら日米合同委員会とか、複雑に糸が張りめぐらされている。事実上、こうした「体系」に逆らうような動きは不可能なんだそうです。すべてが米国の強制ではなく、日本側からの追従・迎合も多い。

仮に政府の専断に怒った民間団体が訴訟を起こしても、政府は絶対に負けない。負けないような形が整っている。だから役人は強気で行動する。役人は負ける側には決して立ちません。おまけに司法は最終的に必ず味方をしてくれる(高度に政治的な事柄に司法は関与しないという最高裁判決がありますね)。そういう形を戦後数十年、しっかり作り上げてきた。なるほど、という説明でした。

ちなみに意外だったのは日本上空の管制権。けっこうなパーセンテージのルートが米軍専用で、日本の旅客機は立ち入り禁止(だから羽田発の航空機は海側に出て行く)。これは知っていましたが、本当は「米軍機は日本上空すべての飛行権をもつ」のだそうです。

ついでですが、米国が日本を守っていると考えるのもかなり甘い。どっちかというと「日本が敵対しないように監視している」というのが近いんじゃないだろうか。ちなみに国連には「敵対国条項」がいまだに残っているんだそうです。日本とドイツは敵対国。これがまた戦争を起こさないように監視するのが国連本来の役目でした。

「連合軍」はUnited Nations、「国連」もUnited Nations。つまり国際連合などど綺麗な言い方ではなく本当は「連合国連盟」とでも称したほうが実情に合っている。それなのに敵対国の尻尾を引きずっている日本が常任理事国になろうと運動しているらしい。奇妙な状況なんでしょうね。



「お言葉ですが別巻6 司馬さんの見た中国」高島俊男


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この人のはたいてい面白いですが、すぐ漢字やら言語の話になるのが困る。それが専門なんだから仕方ないですが、やはり漢字絡みの話になると内容がなかなかに難しい。その点、この別巻6は比較的読みやすいです。

高島俊男という人。とにかく「やりすぎでしょ」と心配になるぐらい権威を切りまくる御老人です。作家や評論家を叩く程度ならわかりますが、飯のタネである大手出版社まで攻撃する。そりゃ敬遠されるでしょうね。ただその切り方が痛快無比で遠慮がなく、ついニヤリと笑ってしまう。

この一冊もいろいろなテーマが盛り込まれていますが、たとえば日本で歴史を贋作というか、強い影響力、勝手なイメージを作り上げてしまった元凶は3つあり、日本外史、司馬遼太郎、NHK大河ドラマなんだそうです。これは非常に納得でした。

ついでですが、日本の「儒学」はいちおう幕府から公認厚遇されていたようですが、実際にはクソの役にもたたない。その代わり害毒ももたらさなかった。それに対して国学は一見マイナーふうなのに浸透力があった。困ったことになまじ影響力をもったために非常に害をなした。本居宣長とか平田篤胤一派でしょうね。これも非常に納得しました。



「戦争と平和」トルストイ

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うーん、これを★★★以下にするわけにはいかないよなあ・・という理由で★4です。そこが「名作・古典」というもの。

それにしてもこの歳でよくまあ再読しようなんて考えた。同じような「名作」でも、たとえばば罪と罰をまた読もうという気にはならない。同じトルストイでもアンナ・カレーニナや復活なんかは手をつける気にならない。大昔、つい懐かしくてジャン・クリストフを買ったけど、いまだにページを開いていない。その代わりモンテ・クリスト伯は何回も読んでいるしレ・ミゼラブルもけっこうな回数読んだ。どこが違うんでしょうかね。

で「戦争と平和」、久しぶりに読んで、やはりナターシャはあんまり好きになれなかった。ついでにピーターってのも、昔からあまり好感持っていません。アホくさい。ま、そんなことは作者が百も承知のわけで、それでも読ませるのが名作の所以なんでしょう、きっと。

だんだん好きになるのは強欲なワシーリー公爵とかヤクザなドーロホフ。ボリスという青年もけっこう好きです。そうそう、ナターシャの姉さんと結婚したケチな男もいいですね。名前は忘れましたが実に似合いの夫婦。

それはそれとして、なかなかに面白い本でした。読んでよかった。最初に読んだのが大学受験後の春休みで、ようやく読めるぞォーという解放感。何日かかったのか。コタツに座りっぱなしでずっしり重い筑摩の細かい活字にとりつきました。読み終えてしばらくボーッとしていた記憶がある。

大昔の大学の一般教養(般教)でとった国文学概論、当時人気だった助教授が「名作ってのは、読み終えると1週間くらいはボーッとするもんです。世界が変わる」とか言うていました。納得です。


「マオ 誰も知らなかった毛沢東」ユン・チアン

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例の「ワイルド・スワン」のユン・チアンです。意外な事実が多かった。というより自分が何も知らなかったというべきかな。

例の長征、単なる逃亡だろうとは思っていましたが、なぜその結果として共産党が大きな力を得たのか。そこのところが分からなかった。不思議です。

この本で理解した限りでごく大胆に言うと、まず国民党が自壊した。失望を買ったんですね。それに代わるものは何か?というと、可能性として共産党しかない。

そんな中、地方組織から権謀術数の限りを尽くして毛沢東がのし上がってきた。方法はシンプルで、とにかくハッタリと嘘。思い切って大胆にやります。そして反対派を徹底的に殺した。もちろん文句をいう農民も無慈悲に粛清。権力を握った。独裁ですね。そして田舎に籠もったため、都会の若者たちには実態が伝わらず、まるでマルクス主義の理想郷のように喧伝された。

ちょうどオーム教団です。腐敗した国民党に絶望し、熱に浮かされた都会の青年たちが延安に吸い込まれていく。そこから(生きて)出てくる連中はいない。神話だけが先行して中身が見えない。実際には逃げようとした連中はたくさんいたけど、みんな殺された。不思議な熱気があったようです。

毛沢東という人、やはり天才なんでしょうね。嘘を言うことに躊躇がない。邪魔になる連中を抹殺することにもためらいがない。いかにも恨みをかって暗殺されそうですが、見事なくらいに臆病で保身に走る。そしてひたすら宣伝々々。宣伝し続ければ嘘も真実になる。

例の大躍進。農民がどんどん餓死した理由の一つは、失政でただでさえ乏しい食料を海外輸出し続けたからのようです。ソ連から高価な武器を買いたいけど、貧しい中国にはほかに輸出するものがなかったから食料を売った。その結果人々が死ぬことにまったく関心がなかった。1億死のうが2億死のうが、それがどうした。(悪い意味で)傑出した人間です。

そうした毛沢東に抵抗する者はいなかった。いたことはいたようですが、みんな途中で(周恩来のように)くじけた。くじけなかった者は抹殺された。



「老生」賈平凹

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中国にも素晴らしい作家はたくさんいる。ひょんなことから莫言を読み始めたのがキッカケで、高島俊男さんの紹介する作家リストなどを参考に、図書館で発見するたびに少しずつ読んでいます。この賈平凹もいい作家でした。

「老生」は年齢不詳の弔い師(弔い唄をうたうのが仕事)を狂言回しに、国共内戦、土地改革と人民公社、文化大革命、そして開放期。一つの村に住む人々の愛や欲望や憎しみ、殺し合いをずーっと追ったものです。現代中国ではこういう大河スタイルの小説が非常に多いですね。他に書きようがないのかもしれない。党を直接批判せず、しかし婉曲にでも抵抗の姿勢を見せるのは非常に難しいのだと思います。

そうそう。記述の背景として、山海経(せんがいきょう)の読解があります。意図がわからないし成功しているとも思えないのですが、たしかに奇妙な本らしい。まさに怪書。ひたすら天下の山や海、そこに住む怪物や産する鉱物を延々と記述している。こういう内容の本だったのか・・と知っただけでも凄い。ほんと、中国にはなんでもある。



「群雲、関ヶ原へ」岳宏一郎

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関ヶ原ものの定番ですね。登場人物がいったい何人いるのか。それぞれの武将がそれぞれの思惑で必死に生き残りをかける。卑怯な奴もいるし、バカ正直もいる。うまく成功した武将もいるし、なぜか失敗してしまったものいる。文字通り「命をかけて」の駆け引きであり、どっちが勝つかの読み勝負。そうした大小の「群雲」たちが関ヶ原の一点へ向けて収斂していく。司馬遼太郎とはまた違った味で、傑作と思います。

登場する人物みんなが必死に生きているからか、読後感は爽やかですね。家康は不器用で愛嬌があるし、三成はもっと不器用で傲岸不遜だけど、可愛いところもある。完全なヒーローなんていないし、悪人も敵役もいない。唯一、上杉景勝だけがちょっと綺麗に描かれすぎで、これは作者のエコヒイキでしょう。

さすがに何回も読みすぎて、どこかの章を読み出すと「ああ、こういう話だったな」とすぐ思い出す。すぐ思い出してしまうのは詰まらないですが、それでも時折は読み返す本です。




★★ 日経文芸文庫
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裏切り者といえばふつう小早川秀秋ですが、それじゃヒネリがなさすぎる。ひょっとして吉川広家かな?とも思って借り出しましたが、ちょっと違った。

主人公は小早川秀秋と増田長盛です。長盛ってのは奉行衆の一人ですね。たぶん近江派の実務官僚で、大和のあたりに所領があったはずです。で、三成なんかとは仲が良かったとみなされる。秀吉の没後というと三成ばっかりがクローズアップされますが、この増田長盛とか長束正家前田玄以とか、どういう人物だったのか。何をしたのか。けっこう勢力もあったはずです。

岳宏一郎の「群雲、関ヶ原へ」では増田長盛、かなり要領よくたちまわり、会津成敗のタイミングにもせっせと家康に情報提供しています。珍しいことではないですが二股膏薬。西軍の後方支援事務をとりながら東軍にも便宜をはかる。しかし結果的にうまくいかなかったような・・・と思ったら、やはりそうでした。

敗戦処理では予想に反してかなり危ない状況になる。領地も城も失い、かろうじて命だけは助けられて蟄居。うんざりして最後は自分から死を選ぶことになっていますが、これは初見でした。官僚ではあったけど、根っこの部分はやはり戦国武将だった。

もう一人の裏切り者、小早川秀秋の場合は「返り忠」じゃなく、最初から東軍に味方していたという設定。たしかにそういう見方も可能でしょうね。家康の味方をする予定だったのに、あいつが悪い、あいつが邪魔する。結果的に不本意ながら西軍になってしまった。だからグレて松尾山に陣どった。

それにしては勝敗を決することのできる1万5千の大軍、山を駆け下るのがあんなに遅れたのか。そのへんは読み終えてもまだ釈然としません。やはり日和見といわれても仕方ない。

近衛龍春、ちょっと多作になりすぎた感もあります。


★★★ 早川書房
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楽観論による人類未来展望です。

人類発祥以来、なぜ特定のグループだけがこんなに繁栄できたのか。それは脳細胞が急に増えたからではないし、農耕を知ったからでもない。ひとえに「交換」によるものだと主張します。

なるほど、という説得力はありますね。小さな集団がどんなに頑張っても、食べるだけで精一杯。たとえば石器をつくるにしても、そんなにエネルギーを割くわけにはいかない。なにしろ忙しいですから。ササッと割って叩いて、ある程度使えるものができればそれで十分。もう少し工夫してみたいなあ・・と思っても「おい、狩りにいくぞ」と言われればそそくさと出かけるしかない。

しかしグループの構成員が多くなると、専門家の生じる余地が生まれます。あいつは狩りは下手だけどナイフを作るのは上手だからなあと許してもらえる。そうやって効率のよい石器を作ることができるようになる。結果的にグループ全体の獲物も増える。ただし環境が変化して獲物が少なくなれば、「専門家」に只飯を与える余裕はなくなり、すべてもとの木阿弥。発明・新技能は消え去り、それが共通の「文化」になることはない。

理由は不明ですが、そのうち「交換」という概念が生まれる。あるグループは狩りに専念する。あるグループは漁が得意。あるグループはケモノの皮をつかって暖かい衣服を作れる。自分たちだけですべてをまかなう自給自足にくらべて、はるかに効率がよくなる。しかも専門技術はどんどん進化し、伝承される

交換とは、いわば他人の労働時間を買うことです。同時に、自分もまた他人に時間を売る。分業制。ふつうの人間がいわば何人もの「奴隷」を使い、同時に自分もまた他人の「奴隷」になる。そして多くの学者たちが主張するよりはるか早期に「交換」は成立していたのではないか。交換という文化が一般化すると、そこに「都市」が誕生する。交換の中核となる場所があると、非常に効率がよくなります。

著者の主張では、「農耕がひろまって都市が誕生」ではなく「農耕普及以前の段階ですでに都市が誕生していた」ということのようです。栗林を育ててから三内丸山が成立したのではなく、交易拠点として三内丸山が誕生し、その後で栗林を造成した。

というわけで、人類はひたすら「交換・交易・分業」によって繁栄してきた。ただしそれを邪魔する存在もあり、たとえば強権国家、商業の規制、詳細なルール作り・・などなど。大きな国家が誕生して国内が平和になると交易がさかんになり、栄えます。しかし必ず過度の王権や官僚や宗教、重税、支配者の強欲によって規制・阻害される。規制されて自由な発明・商業が力を失うとやがて国家も滅亡する。

国家は大きくなりすぎないほうがいい。ただしあまりに小さく分割されるとそれはそれで関税障壁が多くなりすぎて衰退する。だから中国史でみると強大な「明」は衰退した。むしろ三国時代のほうが発展していた。つまり最低限、自由な交易を保障する程度のドングリ国家がたくさんある状態が望ましい。

インターネットで世界中がむすばれた現在、いわば世界中の人間たちが交易可能な状況です。どんな発明でもアイディアでも、あっというまに伝播する。すべてはどんどん改良され、世界中の人間の欲望は果てしない発展へと猛進する。

要するに、国家は民主主義的環境と最低限の安全を保障してくれるだけでいい。政治家や官僚はそれ以上余計な干渉をするな。レッセフェール。欲望というエンジンで世界は無限に発展している。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。

ま、そんな主旨の本でした。これから人類や地球がどうなるのか、いろいろ悲観論は多いですが、著者はすべてを一蹴します。人類には知恵がある。欲望がある。たとえば豊かになると人口膨張はおさまります。石炭、石油。どんどん使えばいい。農作物から燃料を作るなんて本末転倒で食料高騰と森林破壊をまねくだけ。コストが合わなくなれば必ず他のアイディアで出てくるはず。そもそもいつの時代でも悲観論者は大きな顔をしてきた。そうした評論家・学者・政治家の言葉が正しければこの世界は何十回も破滅していたはず。

そういうわけで、ちょっと乱暴な感じもありますが、なかなかに面白い一冊でした。少なくとも論旨は明快。人間=交換する動物、ということですね。


★★★ 新潮社
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本棚にあったのを発見して、ふと一読。

都会の(麻布・肉体派)中学生が松本高校へ入り、山に感動し、前から知り合っていた女学生(東洋英和)と結ばれ、そして空襲で彼女を失う・・・というお話。現代版、ダフニスとクロエーです。ただし背景は戦争末期であり、空襲であり、空腹であり、バンカラな旧制高校の寮です。

北杜夫がごく若い頃に書いたもののようです。「幽霊」が処女作ということになっていますが、それよりも前。本人も「若書き」と記していますが、確かにかなり粗い。恥ずかしくなるような粗さです。

ただ数十年後、北杜夫はその原稿を読み直して、捨てるに忍びなくて後半を書き足した。したがって前半と後半、微妙にタッチが違うものの、ま、「若書き」の雰囲気を可能な限り残したという感じです。

なかなかに読後感のいい本でした。そもそも北杜夫ってのは、こういう小説を書く人なんですよね。


★★★ 講談社
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書き下ろしのようです。「最後の戦い」ですから、主人公は長宗我部盛親。大坂城にこもった武将です。

長宗我部と島津はよく似ていますね。それぞれ四国、九州を併呑する寸前に秀吉のストップがかかった。片方は南海の僻地、片方は九州南端。よく言えば勇猛果敢であり、悪く言えば視野が狭くて遅れている。誤解を恐れない言葉で表現するなら、野蛮人。

長宗我部といえば元親ですが、島津戦役で期待の長男をなくしてからボケたというのが定説です。それから例によって跡目を決めるのにグズグズして、結果的に三男(だったかな)の盛親と孫娘(長男の娘)を結婚させることにした。叔父と姪の結婚です。ちょっと近すぎるので、反対も多かったんですが、たぶん最愛の長男の血筋を残したかったんじゃないか。

つまり、盛親はたいして期待されていなかった。ま、そういう解釈です。

なんせ土佐の田舎もんなんで、政治的な外交感覚に乏しい。で、関ヶ原での立ち回りに失敗して、心ならずも西軍に属する。なーんもしないうちに敗軍ということになって、土佐へ逃げ帰る。で、かなわぬまでも徹底抗戦・・・の決断もできず、マゴマゴしているうちに改易。

島津にとって、この長宗我部の扱いは非常に参考になったらしい。同じ轍を踏むまいとして島津は粘りに粘る。結果的に島津は温存です。島津が得をした。長宗我部は大損した。こんなことなら関ヶ原で決断して突撃するんだった。もしそれができたら結果は違っていたかもしれない。えーい、悔いが残る。

ま、その後はご存じのとおりで、寺子屋の師匠をしていた盛親は請われて大坂城に入る。冬の陣、夏の陣、それなりに奮戦しますが、最後はどうにもならず脱出して、捕まって、二条城の城門にさらされてから首を刎ねられる

この時代、上手に世の中を渡るってのは難しいですね。不本意な人生を送ってしまった武将のお話でした。近衛龍春、そういう辺境の気の利かない武将を好んで書いています。


★★★ 集英社インターナショナル
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ノンフィクション作家と歴史学者の対談です。読みごたえはないけれども、けっこう面白いヒントがたくさん。

ま、簡単にいうと、室町時代を知ろうとしても古文書があまりない。ないところを必死に研究するのも悪くないですが、むしろ「現代の室町時代」つまり東南アジアの僻地やソマリアなんかを調べると同じような文化が残っている。そっちの方が効率がいいんじゃないか。

たとえば室町時代の「足軽」は、いわば僻地ソマリアのテロリスト連中。要するに略奪しか食う手段を持たない底辺層です。だから応仁の乱が始まると、それまで頻発していた徳政一揆が、ピタリと消えた。足軽連中がみんな戦に駆り出されたからなんでしょうね。「徳政だあ・・」と騒ぐ暇がなくなった。つまり「徳政一揆とは搾取された民衆の怒りが・・」というキレイゴト史観では無理がある。

ついでですが、ソマリアでは「客」が非常に威張る。ホストは無条件にゲストを歓待しないといけない文化らしい。だからイスラム過激派が外国人を襲うんだ、という話になります。政府の面目を失わせるためにはゲスト、つまり外国人を襲うのがいちばん効果的。ゲストを守れないとホストの面目はまるつぶれになる。

独裁者、大麻生産地を管理しているマフィア、それを売りつけている米国のギャング。彼らの支配地域は非常に平和で、概して犯罪も少ないそうです。効率的に大麻を生産させるにはまず平和が肝心。もちろん麻薬なんぞ徹底禁止です。ギャングもそうですね。売人が麻薬に手を吸ったら商売にならないし、ドンパチが多発すると警察に睨まれる。文句を言わせず、効率よく、平和に。ですから「独裁は悪、そんな支配下の住民は不幸」と単純に言い切れるかどうか。

独裁者(マフィア)とは、いわば室町戦国の領主でもあります。やっていることの正否はともかく、彼らにとって領内の平和は絶対に必要だった。特に書かれてはいないですが、かつてのフセインのイラクが不幸だったかどうかという問題ですね。かなり難しい。少なくともたった一つの価値観ですべてを判断してはならない。

ちなみにタイでは、農民から税をとるのが非常に難しい。重い税を課すと、すぐ一家でいなくなってしまう。室町の「逃散」ですね。国土が広くて農地がたくさんあるから、どこででも米を作れる。税金の重いとこで辛抱して耕作する必要はない。しかし日本の場合は「どこででも・・」が難しくて、耕作に適した土地なんて、そうそうはない。つまり領主にとって非常に管理しやすい条件が整っていた。

しかし領主の決めた「掟」がストレートに通用していたかというと、たぶん違う。表向きの「掟」とは別に、民百姓たちが暗黙のルールとして維持してきたルールもあった。たとえばの話が「鉄火起請」とか「湯起請」とか。そんなバカな・・という裁判ですが、実際にはさほど熱くはしなかった気配もある。要するに「形作り」ですね。起請をすることで、ナアナアの決着がつく。真面目にやったらみんな大怪我してしまいますから。そうした表と裏を上手に按配して暮らしてきたのが室町の人々じゃないだろうか。


そうそう、余計な話ですが、信長が叡山を焼き討ちしなかったら大変なことになっていたという述懐には笑った。焼き討ちがなかったら膨大な資料が残された可能性があるということです。研究者からすると、資料がない(古代)のは困るけど、多すぎる(近世)のもまた困る。多すぎると資料の山の中に埋もれる結果になり、。そういう意味で中世というのは、一生かければ全体を概観することができる程度の資料なので、歴史研究者にとって手頃なんだそうです。なるほど。


★★★★ 新潮社
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ふと気が向いてこの分厚い上下本を。いったい何回読んだのか、カバーがボロボロです。上巻なんかずいぶん前からむき出しになっている。

ご存じの方はご存じでしょうが、関ヶ原の決戦へ向けて右往左往する戦国群像劇です。書き出しは蒲生の移封決定から。そして上杉景勝が越後から会津へ移る。登場人物は何十人いるか数えたこともないですが、主役というか登場回数が多いのは家康、景勝、石田三成など。もちろん前田利家、真田昌幸、黒田官兵衛なども主要メンバーです。

内容はいわゆる通説+独自資料。それを土台にして著者がそれぞれの人間性を自由に解釈して叙述する。武将たちの思考と行動はあくまで戦国ふうであり、しかし決して類型化しない。みーんな自分第一、生き延びるために必死。嘘もつくし裏切りもする。特に悪い奴もいないし、善人もいない。人間臭さが非常に魅力的です。

たとえば家康はけっこう愛嬌があります。ウナギのように胴長で、嘘が下手で不器用で吝嗇で、ずーっと律儀を売り物にして過ごしてきた。臆病なんだけど、追い詰められると意地になって居直る。ヤケになる。関ヶ原で本営をあんなに突出させたのも、たぶん半分はヤケです。死ぬか生きるかの大博打。

三成はだいたい想像通りの正義漢ですが、決して善人なんかじゃない。べらぼうな策士。そして超有能。あんまり嫌われてるんで、逆に家臣たちには妙に愛されている。庇護の対象という感じでしょうか。かなり可愛いです

あまり知られていないマイナー武将たちを描いた章が特にいいですね。たとえば選りすぐりの寵童たちを着飾らせて連れ歩くのが好きだったバブリーな安国寺恵瓊とか、思案のときには唇の薄皮を剥く癖のあった海賊衆の九鬼嘉隆とか。息子たちを犠牲にしてまで、敢えて展望ゼロの大坂城に入った老将(氏家行広)とか。人間ってそういう部分、あるよなあと感じさせる。

奉行職筆頭格だった浅野長政もいいですね。彼の目には太閤の死後、次は家康ということが分かりすぎていた。しかし豊臣と徳川が対決した場合、自分の立場は非常に難しい。なにしろ長政は高台院(北政所)の義理の弟です。というわけで、訳のわからない家康暗殺計画に連座させられたとき、内心喜んで身をひいた。関東に隠遁したんだったかな。政争の表面から姿を消し、家康に従う形になれた。で、豊臣政権で要職にあった人物としては非常に巧みに生き延びて、たしか息子は和歌山城主。

で、著者によると秀吉にとって「木下一族」は信頼できる縁戚でもあり、目障りな集団でもあった。この一族のリーダーは正妻の北政所です。女房の実家関係というのは頼りにもなるけど、あんまり図に乗らせたくない連中でもある。こういう視点はなかなか面白いですね。

同じ木下一族として、伏見城の責任者だった木下勝俊という人も登場。えーと、なかなか面倒ですが、たぶん松の丸殿(京極竜子)の連れ子で、秀吉の指示で木下家へ養子にやられたという解釈。したがって小早川秀秋とは一応兄弟。北政所が義理の叔母。この時代、縁戚関係が非常に複雑です。

で、東西手切れで三成が伏見城を攻めた際には、攻める側が小早川秀秋、守る側が木下勝俊。やってられないです。軟弱な勝俊はさっさと逃亡した。あるいは家康が派遣した守将の鳥居元忠に追い出された。その後はいろいろあって、結果的には叔母さんの庇護のもと、悠々と歌を詠んで過ごした。けっこう有名な文化人らしいです。

この本、何回も読んでいると、著者の解釈がちょっと強引に感じる部分も出てきますが、ま、それでも名著であることに変わりはない。司馬遼太郎の「関ヶ原」あたりを先に読んでおいたほうが楽しめるかもしれません。

それにしても「群雲、大坂城へ(仮題)」はまだか。


★★★ 講談社
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フランス革命を描くとき、どうしてもパリが中心になります。しかし実際には、フランスはパリだけでなく、地方都市もあるし田舎もある。ということでロワール川下流の都市ナントで暮らす貴族やブルジョワ、庶民はどう受け止めたのか。激動をどう生き延びたか。

ま、そういう設定で、しっかり調べ上げた小説です。しかし皆川博子ですから中身はドロドロ、ネチネチした濃厚な文体とストーリーで話は進みます。上巻の舞台はナント、下巻は主としてロンドンかな。

ちなみに「クロコダイル」はワニ。なんというかメタファーとして登場するワニ(実態があるものも、ないもの)はやたら出てくるんだけど、それがいまいち明確ではない。おまけに成功しているような気もしない。訳のわからないワニなんて存在しなくてもいいのに、著者はえらくワニにこだわっている。

そうそう。たぶんロベスピエールの仲間だったらしいジャン=バティスト・カリエという人物、初めて知りました。パリからナントに派遣されて革命委員会を組織、強大な権力を持っていたらしい。不満分子を片っ端から逮捕してさっさと処刑する。とくにナントの周辺は王党派が軍団を組織して激しい戦闘になり(ヴァンデの乱=これも初耳)、大量の捕虜の始末に困ってボロ船に乗せてロワール川に沈めるという案をひねりだしたのがジャン・カリエ。

収容する牢獄もないし、ギロチンはけっこう手間がかかるし、銃殺は弾丸がもったいない。川に沈めるのがいちばん手っとり早い。最初のうちは隠匿していたけど、最後の方はおおっぴらだったらしい。数千人を沈めた。さすがに後日、問題になったようです。「共和国の結婚」とも称され、男女を裸にむいて抱き合わせて縛って放り込んだという説もありますが、さすがにこの真偽は怪しい。

ついでですが、悪名高い秘密警察のジョセフ・フーシェもやはりナントの出身です。フーシェって、高校生のころにたしかツヴァイクの伝記もので読んで、しっかり記憶に残りました。革命期の怪物ですね。激動の時代の生き残りの達人。ナントって、けっこう有名人を生んでいる。だいぶ前に家内といっしょにロワール地方の城を巡ったことはあったけど、せいぜいトゥールまで。ナントまでは行けなかった。

で、上下巻を読み終えての実感。本筋とは無関係ですが、この時代のフランスや英国に生きた貧民でなくてよかった。ほんと、貧しそう。飢えていそう。痛そう。寒そう。凍えそう。比較的最近、18世紀から19世紀の英仏なんですけどね。アジアやアフリカはもっと大変だったんだろうし。人類の歴史、庶民が生きることは常に厳しかった。


★★★ 早川書房
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レン・デイトン、もちろん名前は知っているし読んだこともあるはず。しかし何を読んだか・・というと確かには思い出せない。要するに、すごく感動したことがないのかな。

この「SS-GB」は、歴史IFものの警察小説です。ドイツ占領下のロンドン、ヤードのアーチャーと呼ばれる警視が殺人事件の解決に活躍。実際、もしヒトラーがソ連にちょっかいかけず、真面目に英国攻撃を続けていたら早期に勝利していたかもしれない。ま、けっこう可能性はあったでしょうね。

で、その場合、ドイツは英国に駐留し、国防軍や親衛隊が統治。ソ連とは独ソ条約の友好関係を保ち、米国とは緊張感をもちながらも敵対はしない。英国王はロンドン塔に幽閉されている。娘のエリザベスなんかは海外に亡命している。

読み始めの最初の頃は英国駐在のSS(親衛隊)幹部とスコットランドヤードの関係がよくわかりませんでしたが、そうか、要するに日本だったら警視庁の警視と進駐軍の関係なんだ。表面上は協力しあっているようでも、もちろん実権は進駐軍にあり、絶対に反抗は許されない。周囲からは進駐軍におべっか使っている・・と非難されながら、それでも警察は警察。公務員としての仕事を果たさなければならない。

そして進駐軍の士官たちは貴重な陶磁器や家具、美術品を買いあさり、ブローカーや闇商人が暗躍する。どんどんベルリンへ運び出す。成り金も登場します。町並みはまだ空襲に破壊されたまま。市民はそうした景色や収容所へ連行される人たちの悲惨を見ないようにして暮らしている。つまり「目を半分つむって」生活している。

で、この小説を理解するカギになるのはドイツ国防軍と親衛隊の敵対関係ですね。お互い蛇蝎のように嫌いあっている。幽閉された国王の身柄は親衛隊が管轄しているんだけど、国防軍としてはそれが非常に面白くない。戦争とは国家と国家の衝突。衝突の主力はそれぞれの国軍である。勝ったほうの国軍が敗戦国の元首を管理管轄するのは当然だろうという感覚。それなのに何で怪しげなSSがのさばっているんだ。SSなんて、要するにヒトラーの私兵じゃないか。メンツがつぶれる。

そうそう、小説に登場する主要なSS幹部は二人。一人は連隊指揮官、もう一人は師団指揮官。これが正式名称らしいですが、一般的にいうと大佐と将軍に相当するようです。将軍は少将か中将か、ちょっとわかりませんでした。

ちなみに関係ないけど、沙漠の狐ロンメルは国防軍の将軍です。だから今でも人気がある。


★★★ 早川書房
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ル・グィンは大好きな作家の一人です。大昔に読んだ短編集「風の十二方位」は良かったなあ。もちろん長編もいいです。西海岸あたりの未来を舞台にした「オールウェイズ・カミングホーム」以外は()みんな好きです。ゲド戦記ものもいいし、ハイニッシュとかいう一連のシリーズもいい。男になるか女になるか未定の両性人の「闇の左手」とか。

で、「世界の誕生日」は短編集です。収められたほとんどがハイニッシュもの。かつて栄えた人類が宇宙に散らばって、そこで独自の文明を築き上げる。成功した世界もあるし、原始的な段階に止まった惑星もある。

表題の「世界の誕生日」は、インカとか古代エジプトあたりをモデルにした神権政治の国のお話で、ちょっと長めの中編。皇帝(神)の娘と息子が結婚して次の神になる。そこへやはりエクーメンふうの使節が宇宙船で来るんですが、しかしこの連中は何もできない。そういう意味ではハイニッシュシリーズとは違うのかな。何もしないけど、宇宙船の来訪をきっかけに神の帝国は崩壊してしまう。

「世界の誕生日」というのは、皇帝(つまり神)が毎年決まった日に踊ることで、太陽の運行が定まる。つまり世界を毎年々々誕生させる。そういう意味。どうもかなり暑い世界のようです。宇宙船で来た連中はみんな皮膚ガンになってしまう。

「オールウェイズ・カミングホーム」はフェミニズムというか、要するに女臭さが強すぎたんでしょうね。アーシュラおばさん、女同士の関係を描くとベッタリ濃密すぎてどうも辟易します。
 

soremoikkyoku.jpg★★ 水曜社

副題は「弟子たちが語る「木谷道場」のおしえ」。

有名な囲碁木谷道場のお話です。列伝ふうに十数人の棋士たちをとりあげ、そうした弟子たちの証言で構成した本。プロ棋士だけでなくアマチュアとか出入りの床屋さんなんかの証言もあります。

悪くはないし、それなりに面白いのですが、うーん、ちょっと新鮮味がない。というか、雰囲気、情緒がなんか物足りない。期待をもちすぎだったかな。


ところで木谷道場と加藤正夫のことを書いた本、精霊の宿とかなんとかいうものだったと思うんだけど、正しい書名が思い出せない。なかなか読ませる好著だったんだけどなあ。うーん、歯がゆい。

・・・「精魂の譜」だった。 かなり違ってた。副題が「棋士加藤正夫と同時代の人々」。いい本でした。


★★★ 文藝春秋
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戦前の東京郊外の中産階級が暮らす赤い屋根の小さな洋館。戦争のことなんて気にもせず日々の生活にいそしんでいます。奥様と女中はたまに銀座に出かけては洋菓子を食べ、洒落たお土産を買って帰る。懐かしき日々。

先に映画を(もちろんテレビで再放送)見てしまったので、なんというか、人物がみんな松たか子やら黒木華になってしまう。あ、青年デザイナーの役だけは吉岡秀隆じゃなくて、誰か別のイメージ。あのドラマ、吉岡クンだけは場違いだった。

映画もよかったけれど、小説はもっと良かったです。奥様の浮気の部分はさして比重が多くない印象。あくまでテーマは自分と美しい奥様が過ごした甘美な月日ですね、たぶん。戦前の中産階級の、ちょっと背伸びした暮しぶり。そして女中のもつ「ある種の賢さ」と葛藤と小さな嘘のお話。

年取った主人公のもとに出入りする甥っ子の次男。彼の「暗い足音のせまる戦前」論はちょっと練れていない生硬なセリフまわしで、どうかなとも感じますが、ま、瑕瑾。作者はこれで直木賞をとったらしい。

★★★ 青土社
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副題は「最後の英雄クアナ・パーカーの生涯」。

西部劇時代、強かったインディアンはアパッチとかスーとかシャイアンとか、ま、そういうイメージです。駅馬車や列車を襲うのはたいてい羽根飾りをつけて弓をもった集団です。馬に乗った百人くらいのインディアンが奇声をあげていっせいに襲いかかる。

ジョン・フォードの「駅馬車」はたしかアパッチ。リトルビッグホーンの戦いはスー族かな。あんまり自信はないですが線路が開通していたり、駅馬車の行き来する街道があったりしたのは、たぶん中西部も北のほうじゃないだろうか。

しかしこの本の著者(ジャーナリズム畑の人らしい)によると、最大最悪のインディアンはコマンチだった。何かの本(たぶん「センテニアル」)で「馬泥棒のコマンチ」という表現があったような。馬=コマンチ。早い時期から馬の飼育に習熟し、機会があれば何百頭、何千頭の馬を盗み出す。そもそもは北のほうにいた部族で、インディアンの中でもかなり原始的な暮しをしていたマイナー部族だったけど、南下して馬を手に入れてから一変して、あっというまに大部族になった

ただしコマンチが全盛期に活躍したのはテキサス周辺でした。例のアラモ砦うんぬんの後の戦争でテキサスはしばらくの間、準独立国家で、要するに合衆国に入れてもらえず、継子あつかい。だからテキサスのことなんて、他のアメリカ人にとってあまり関心がなかった。テキサスそのものに関心がないんだから、テキサスで暴れているコマンチにもあまり興味はない。ま、そういう事情のようです。

この本、白人とインディアン(先住民族)の描き方、わりあい公平と思います。フロンティアの白人たち、ほとんどは困った連中です。文字も読めず、インディアンをシラミあつかいし、条約を作っては欲にかられて裏切り。土地がほしい。西進をやめるつもりなんかゼロ。ま、だいたい想像通りです。

しかしコマンチも決して「高貴な戦士たち」なんかではない」。条約を提示されれば「プレゼントがもらえる」と喜び、ただし遵守するつもりは毛頭ない。そもそも条約の意味が理解できないんです。一人の戦闘隊長がなんか誓ったからといって、なんでオレたちまで拘束されるんだ。意味わからん。そもそもいえば、インディアン部族に「首長」がいると思った白人が勉強不足。インディアンは基本的に全員平等で、西欧的な意味での「統率者・代表者」はいなかった。

で、機会さえあれば馬を盗み、集落を襲っては男女かまわず皆殺し。ただ殺すだけではなく楽しんでなぶり殺す。役にたたない赤ん坊ももちろん殺す。ただし5歳とか8歳くらいの子供だけは連れさって部族の仲間に加える。人口拡充策です。馬に乗った生活のせいかコマンチは出生率も低くて子供が少なかった。

それが悪いとか残酷といわれても困ります。そういう文化だった。まともなコマンチなら生まれたときから戦いを学び、馬を見たら盗み、敵に会ったら襲う。失敗すれば自分が殺される。ただ死ぬんじゃなくて、これもなぶり殺しです。お互いさま。

というわけでコマンチがテキサス中を蹂躙した。テキサスだけでなく数千マイルを縦横に移動し、たまにはメキシコ湾ちかくの大きな町まで侵攻したこともある。ただし略奪した大量の財宝(食料、布、家具、etc・・)をえんやこら持ち帰ろうとしたんですぐ追跡された。インディアン、欲張り。

コルトの連発銃が普及するまでは、むしろコマンチのほうが強かったんですね。単発銃で1回撃つあいだにコマンチは5~6本も矢を射てくる。コマンチを討伐するはずの民兵もなかなか「馬に乗って攻撃する」という発想を持てなかったんで、いつも負けていたらしい。有名なテキサスレンジャーが登場してようやく潮目が変わるものの、その連中も当初はほとんど食いはぐれた浮浪集団みたいなものだった。

そうしたコマンチでひときわ強力なバンドの統率者がクアナ・パーカーという残酷な若い戦闘隊長。子供のころにさらわれてインディアンとして育てられた白人娘の息子(この母親のストーリーも有名らしい)。要するに母は白人、父は酋長。これが強くて勇気があって、賢かった。最後の最後まで抵抗し、そして最終的には降伏。降伏してからは政治力と交渉力を発揮してなぜか「インディアンの代弁者」になってしまった。やがて数千ドルを費やした豪邸をたて、東部の有名人やテディ・ルーズベルトまでその家でもてなした。

知らないこと、多いです。


★★ たちばな出版
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西域ものです。登場するのは4世紀の僧 法顕、6世紀の宋雲、前漢の張騫、そしてヘディン、19世紀のヤクブ・ベクという地方反乱の首謀者。

このうちなんとなく知識があったのは張騫とヘディンくらいですね。法顕は名前に聞き覚えがある程度。宋雲はよう知らん。ヤクブ・ベク? なんじゃそれは。

知っているといってもヘディンは例のさまよえる湖ロプノールだけです。誰の本だったか。井上靖かな。豪腕の探検家という印象でしたが、実際には探検している時間より中国の官憲と折衝したり金を集めたりしている時間のほうが長かった。ま、そういうものでしょう。張騫も匈奴の捕虜になってダラダラ暮らしている時間のほうが長かったようだし、みんな信じられないくらい辛抱強い。

西域といえば求法の僧たちですが、それにしてもなぜ彼らはいつも西回りで何年もかけて行ったんでしょう。これは少年時代からの疑問でした。南回りとか、船に乗ればもっと近いんじゃないだろうか。

たとえば西遊記の一行、苦労して魔物たちと戦いながらついに天竺へ到達したわけですが、いざ到達してしまうとあとがイージーすぎる。えーと、孫悟空たちはたしか膨大な教典をプレゼントしてもらって、観音様の雲にのってヒューッと帰国。しかしこの本によると法顕は南回りの船で帰っている(ちなみに玄奘三蔵はまた陸路で帰国したようです)。

もうひとつ。求法僧たちは道中たいてい酷い目にあって、必死の思いでインドに入ります。どう考えても多量の金銀を持っていたとは思えない。それなのにインドに入ってから苦労したという話を聞かない。たいてい歓迎されて、多量の教典得てスムーズに帰国している。不思議だなあ。ヨレヨレになった汚い外国人一行がインド北部あたりの村にたどりついて、そこから簡単に有名寺院に迎え入れられたり王に会えたというのがわからない。

不思議です。


★★★ 早川書房

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半年ほど前に映画「オデッセイ」を見て、いろいろ疑問が生じました。ただし原作の「火星の人」ではしっかり書かれているらしいとの情報があり、そんなら読んでみるか。

図書館には在庫が2冊。ただし予約20人待ちだったかな。多すぎるんで、諦めました。しかしそれから何カ月かたって、念のため予約待ちの人数を確認したら2人に減っている。うん、それなら予約を入れておくか。

という経緯で、ようやく借出し。

なるほど。完全にハードSFですね。理系はまったくダメ・・・という読者は辛いかもしれません。少なくとも水素二つと酸素一つで水ができるとか、その程度の知識は必要。小説の中でも電圧の話とか速度の話とか、計算もけっこう出てくる。

映画で変だなと感じたこと、けっこう解決しました。まず戸外で回収した糞便ですが、もちろん匂いません。マット・デイモンが臭そうにしたのは映画版のサービスです。また戸外放置の糞便ではバクテリアは死んでいます。しかしいろんな有機物がたくさん残っているので、バテクリア繁殖のエサにはなる。そして種になるバテクリアは地球から持参の少量の土の中にいます。適当な水分さえあれば土壌細菌はどんどん増殖する。

マット・デイモンが火をつけるのに使った木の十字架。これは最初に着火させるために使用しただけであって、あとは勝手に燃えてくれるらしい。燃料は少しずつ滴り落ちるようにされていたようです。

そうそう。この作業で水素を作り、それを少しずつ燃やしたわけですが、いくら水素が危険であっても、たっぷりの酸素さえなければけっして爆発しない。ところがマット・デイモンは呼吸をしているんで、呼気の中に酸素が混じっている。ここを見逃したために酸素量が多くなり思わぬ水素爆発が起きた。

また原作では、ローバーの天井に穴をあける作業中にもトラブルが起きています。ただしこのトラブルの理由(電流・配線)はちょっと複雑と思われたのかな、たしか映画にはなかったと思います。またローバー横転事故とか、ソーラーパネルの発電量を危険域まで落とす砂嵐襲来の挿話もなかったような。

一方で母船の速度を落とすための空気吹き出し、まさかと思ったら原作にもありました。こんなに減速してしまってその後の火星スイングバイがうまくいくのか。かなり疑問ですが、ま、理論的に一応は可能なのかもしれません。

その代わり、映画では面倒そうな爆弾作り、実際は単純なものでした。丈夫なガラス容器に砂糖を入れ純酸素を満たす。周囲はゼロG。重力がないので砂糖は細かな粉末となり、非常に燃えやすい。そして中に通じた導線をショートさせる(電源スイッチを入れる)だけで大爆発。なるほどねえ。

そうそう、宇宙服に穴をあけてのアイアンマン飛翔はさすがにありませんでした。これはいくらなんでも難度が高すぎて荒唐無稽になってしまう。

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