「文明と戦争 上」 アザー・ガット

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bunmeitosenso.jpg★★ 中央公論新社

ぎっしり詰まった上下巻ですが、珍しく上巻だけ借り出し。ずっしり重量があるんです。読み始めてみてダメだったらダメージが大きい。それで上巻だけ。

なかなか面白い本でした。しかし訳が硬いです。硬いというんじゃなくて、こなれてないのかな。とにかく読みにくい。調べてみたら訳は「歴史と戦争研究会」とかで、筆頭監訳者も戦史関係の人でした。なるほど。

何故戦争はおきるのか。戦争は避けられないのか。そのへんがこの本のテーマです。で、結論は「避けられない」。人類が人類として誕生したときから戦争は宿命だった。理由は資源の奪い合いです。資源ってのは、要するに食べ物とか女とかですね。食べて、生きて、性欲を満足させて、その結果として子孫をたくさん残す。そのためには闘争・戦争は必須。

なんなとく旧石器時代の人間は広大な土地をうろうろしながら平和に生きてきたような印象がある。なんせテリトリーは広いんです。あえて争う必要はない。

しかしこれは妄想というのもので、どんなに広くても「良い狩場」はたくさんありません。仮にたくさんあっても、その場合は好環境でポコポコ子供が生まれるから人が増える。結果的に人口と資源の関係は常に変わらない。いつだって食うのにヒイヒイ言ってる状況なわけです。

荒れた土地なら、広大なエリアにぽつんぽつんと人が暮らす。豊かな土地ならギッシリと暮らす。どっちにしても「食い物が足りない・・」という状況です。もっと縄張りを増やしたい。チャンスがあったら強奪したい。

ここで重要なのはコスト計算です。たとえば猛獣同士、なぜ死をかけて争うことが少ないかというと、得られる利益にくらべてコストが高いから。多少の強弱はあっても、相手にも爪があり牙がある。本気で戦ったら自分だって傷つく。もし傷ついたら喜ぶのは周囲の連中で、ラッキー!ってんで、よってたかって自分をいじめる(あるいは食べる)に決まっている。だからめったに本気の死闘はしない。

というわけで、ほとんどの動物も人間も、お互いに戦います。ひとつだけ違うのは、人間は相手を殺すまで戦うということ。なぜなら人間は道具を持っているから。こっそり後ろから石でガツンとやれば、報復をおそれずに相手を殺すことができる。最初の一撃が致命的な力を持っている・・・というのが、道具を持った人間の特殊性です。

オーストラリア原住民などの部族抗争をみると、もちろん数十人のクラン同士が正々堂々と戦うこともあります。ただし、よく見ると、みんな遠くからワーワー喚いたり槍を投げたりだけで、めったに接近戦にはならない。一種の戦争ゲーム。お祭り。こういう戦争で人が死ぬことはまずない。

人が本当に死ぬのは急襲です。たいていは夜。こっそり忍び寄って、居住地を一気に襲う。この夜討ちでは、相手の部族を全滅させることもあります。男と老人はすべて殺して、若い女だけは戦利品として持ち帰る。若い女は生殖の相手にもなるし労働力としても使える。

要するに、相手が強そうな場合、拮抗している場合は戦わない。相手が非常に弱い立場の場合だけ急襲して全滅させる。全滅させるのは、報復されないためですね。抹殺してしまうのが安全保障上、いちばんの良策です。もし多数を逃がしてしまうと、こんどは逆に自分たちが夜襲されるかもしれない。怖くて夜もオチオチ眠れません。

実際の戦争のキッカケはいろいろです。女の取り合い。縄張り争い。身内を殺された復讐。首長のメンツ。黒魔術に対する報復。あるいは、専守防衛では危険だからと思い切って(防衛のための)先制攻撃。理由はいくらでもあります。

旧石器時代、死亡の原因の非常に多くが「殺人」。15%くらいは暴力によって死んだ。男性だったら25%くらいだそうです。したがって農業の開始によって戦争が始まった・・というのは完全な虚構で、むしろ狩猟採集時代のほうがやたら戦争していたらしい。

で、農業牧畜が始まると今度は「守る側」と「攻める側」が明確になります。定住して富を蓄積している集団を、飢えた遊牧民が襲うようになる。ワーッと攻め込んで羊をかっぱらっていく。場合によっては皆殺しにして女や穀物をかっさらっていく。黒沢の七人のサムライの世界ですね。これじゃたまらんので、農民は寄り集まって防御力を高める。大きな集団になると防壁をつくる。都市国家になる。

話はズレますが旧約にでてくる「エリコ」はそうした非常に古い城砦集落だったそうです。紀元前8000年紀というからえらく古いです。ヨシュアのエリコ攻城ストーリーは典型的な牧畜民による都市襲撃ですね。

で、「国家」はもちろん戦争を起こします。ただ国家はやたら戦争をしているようですが、調べてみるとトータルとしての死亡率は案外低くなっているそうです。国家という大きな暴力装置の誕生によって、個人間や家族間などの小さな闘争は激減した。ときたま国家としての戦争は起こすけれど、それでも戦争によって死亡する市民の数はかなり低くなった。たとえば悲惨な近代戦でも実は人口の数%程度が死亡するレベルらしいです。えーと、いまの日本なら100万人とか200万人程度でしょうか。すごい数だし自分は死にたくないですが、狩猟採集時代の死亡率にくらべるとまるで天国であるらしい。

というわけで、人間と戦争は密接に結びついている。これを完全になくすことは非常に難しいかもしれない。

ただ幸いなことに(?)現在は保有する武器が高性能になりすぎています。使用することのリスクがべらぼうに大きくなっている。で、本気の戦争をするのは、狩猟採集の時代から(というよりサルの時代から)相手を完全にやっつける目算のあるときだけでした。相手を完全に壊滅させる計算が成り立たない限り、たとえば核兵器は使えません。

相手が弱いとみると攻撃する。相手が強そうならケンカはしない。それが人間の本性ということらしいです。だからアフリカとかインドとか、宗教や民族対立を(名目上の)理由として大量殺戮が発生しますが、常に「強い側」が「弱い側」を殺しつくす。力が拮抗している間は大きな戦争にならない。

という流れからすると、核保有国がたくさん増えてしまったことは安全保障的には良いことになるんでしょうか。ただし「止まるためには走り続ける必要がある」という鏡の国のアリスの赤の女王理論があるんで、軍拡競走・安全保障にかかる費用はとめどがない。そしてあまりにコストがかかりすぎると、かつてのソ連のようにその国家は破綻する。

平和のためには、すべての国家リーダーが「賢くて冷静で計算ができる」という大前提が必要のようです。

みんな、賢いかな。ま、たぶんこんなことが書かれている本なんだと思います。