薄田泣菫の「茶話」が面白くなくなったわけ

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子供の頃、といってもたぶん中学生ぐらいだと思いますが、薄田泣菫の「茶話に惚れ込みました。厚手の文庫本のような形の本(たぶん昭和初期の刊行)が家に転がっていた。全編なんとも気が利いてトゲがあって面白い。

後年、この「茶話」が分冊で復刊されて文庫になっていることを知り、買ったことがあります。うーん。記憶にある笑話もあって、そこそこは面白いんですが、なんか違う。期待ほどではない。こんな程度のものだったのかなあ・・・と感じていました。

先日、図書館の本棚で「お言葉ですが...」というシリーズが並んでいるのを発見。中国文学の高島俊男という人の連作エッセイらしい。一冊手にとってパラパラッと拾い読みしたら、たまたまこの「茶話」のことが書いてありました。

はい。高島センセも「茶話」が面白くなかったと言ってます。で、どうしてだろ?と調べてみたら、新聞連載当時のオリジナルが非常に痛烈・激烈なので、主に固有名詞の部分など大幅に省略・改訂したらしいことが判明。単行本にまとめた出版社が「これは危ない」とか「これは告訴されるかも」と判断した部分を骨抜きにした

なるほど。それで長年の疑問が氷解です。その当時の政治家やら文化人やら軍人やらを徹底的に揶揄する毒気が魅力のエッセイなのに、その毒気を抜いてしまった。そりゃつまらんわけだ。

理由がわかって嬉しいです。ついでにこの高島俊男センセの本、数冊借り出してみました。読み終えたらご報告。