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今年のエントリーの数は88。実際には再読やら何やらで、だいたい100冊くらいでしょうか。読む量はかなり減っています。

★★★★★評価はもちろん無し。★★★★もほとんどなかったはずで、ゼロかと思っていましたが、検索かけてみると2冊4冊もあった。当たり年だったというべきでしょうか。


「江戸城の宮廷政治」

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山本博文。江戸時代初期、細川忠興と息子忠利の間にかわされた膨大な書簡の紹介です。

忠興は例のガラシャの亭主で、知恵も働くけど荒々しい戦国武将。しかし息子の忠利は人質として江戸城が長かったので(それが理由で兄たちを差し置いて跡継ぎになった)幕閣や有力旗本とのパイプが太い。父親も将軍家にやたら気をつかったけど、息子はそれに輪をかけて従順だった。他の大名連中から見れば阿諛追従の細川という印象でしょうね。

でも、そうした態度のおかげで細川という有力外様の家を存続することができた。ほんと、ここまで・・というほど卑屈に身をかがめています。天寿をまっとうして死んだ忠興は、臨終のまぎわに「戦国の頃はよかった・・」と述懐したらしい。鑓一筋の武張った時代は終わり、人間関係と宮廷工作の時代。なんかつまらんなぁと思ってたんでしょうね。


「邂逅の森」

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熊谷達也という作家は発見でした。まったく知らなかった。ただし現代もの小説はちょっと落ちる印象で、やはり真骨頂はマタギものです。

で、代表作といわれるのがこの「邂逅の森」。秋田の貧しいマタギ村の若者が有力者の娘を孕ませて追放され、近くの鉱山で働き、やがてまたまた猟師に戻る。そして狙うことが禁忌になっている山の主、巨大熊と対決。あっさり言うとそんなストーリーです。銃の名手ではあるものの、けっして万能の英雄ではない。ごく普通の若者。女も好きだし酒も飲む。そしてマタギの暮しも楽ではありません。

そうそう。数年間いることになる鉱山。今年の朝ドラにも出てきましたが、鉱山ではたんなる労働者ではなく親分子分の関係で働きます。ヤクザとか香具師なんかと同じ全国ネットワーク。友子制度と称するもので、職能伝授・互助組織です。そのへんのお話はなかなか面白かったです。


「砂漠の狐を狩れ」

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スティーヴン・プレスフィールドは「炎の門」を書いた人です。したがってこの本もタイトルイメージとは違って、単なる冒険小説ではありません。どっちかというと地味です。

中身はもちろんアフリカ戦線、ロンメル将軍をなんかとして殺せないか・・と劣勢の英軍が知恵をしぼる。砂漠を大きく迂回してロンメル司令部に奇襲をかけることはできないか。ということで砂漠仕様のシボレートラックが用意され、長距離砂漠挺身隊はしょっちゅう故障しながら延々と走り続けます。ひたすら過酷な環境の連続、故障の連続。エンジンはガタつくしサスペンションは折れるしタイヤはパンクするし

砂漠の戦車戦についてのイメージが大きく変わりますね。お互いが堂々と対峙して戦車砲が吠え・・なんて派手なことはまずない。遠くからひたすら叩かれる。どんどん壊れる。相手の戦車隊が見えた頃は、こっちはもう壊滅状態。面白い本でした。

ところでスティーヴン・プレスフィールドという人、絶対に英国人と思っていましたが、どうも違うらしい。意外でした。米国人がこんなスタイルの(要するに辛気臭い)本を書けるんだ。


「ほんとうの中国の話をしよう」

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余華という作家もしっかり名前を覚えました。「兄弟「血を売る男」などなど、良質の小説を書いています。

で、「ほんとうの中国の話をしよう」は小説ではなく、一種の半生記です。文革時代に育ち、紅衛兵に憧れて街を走り回った少年時代。修正主義の悪人たちを絞りあげたり、食料切符を換金しようとする不埒な農民を殴ったり、家族会議を開いて自己批判して壁新聞を書いたり。当時の庶民の正直な感覚のようなものが伝わります。

この人の英訳本は「ヘミングウェイみたい」と称されるそうです。でも本人曰く「それは使っている言葉が難しくないから」とか。勉強する機会のなかった世代なので、知っている言葉だけ使って書くしかなかった。だから簡潔。キビキビしている。平易。

ちなみに若いころは「歯科医」ということになっていますが、実態は「虫歯抜き職人」です。給与は他の労働者とまったく同じ。朝から晩まで農民たちの臭い虫歯をペンチで抜き続ける。耐えがたい日々だったらしい。


「美しき日本の残像」

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アレックス・カー。40年以上も前に日本の美術品や古民家が好きになり、まだ学生のうちに借金して徳島の山奥で古屋を購入、修築。それをしっかり商売にも結びつけた。以後も日本の古いものを愛し続けながら、みんながなんとなく思いこんでいる「日本の自然は美しい」という錯覚に一撃くらわした人です。

要するにニッポンの「美」はどんどん失われている。もう絶望的な状況。歴史の観光都市・京都だなんて威張ってる場合じゃない。まがい物。パチンコ店のネオンがギラギラ輝き、青空を電柱と架線が汚している。日本に清流なんて残ってますか。道という道をアスファルトで敷きつめる。無機質なコンクリート建築があふれる。事実を見つめてみましょう。ま、そういう本ですね。

ガイジンにそう言われてみれば、確かにそうだなあ・・・と心が少し痛みます。少なくとも「日本は素晴らしい」と意味なく威張るのはよしたほうがいい

本人はだいぶ前に日本にアイソをつかし、たしかタイだったかに逃げてしまったはずです。あっちはまだ「美」が残っているらしい。


「悪い奴ほど合理的」

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レイモンド・フィスマン。けっこう面白い本でした。一応は「低開発経済学」の本ですね。発展途上国はなぜいつまでたっても発展途上国なのか。たとえば1960年頃、韓国とケニアはほぼ同レベルでした。ではその後なぜ韓国は抜け出し、ケニアはケニアのままなのか。キーワードは腐敗と暴力。

貧しいから腐敗と暴力がはびこっているのか。あるいは腐敗しているから貧しいのか。どっちが先なんだろう。貧しいから警官や役人はワイロを要求するのか、それとも役人や警官が堕落しているから非効率で貧しいのか。

一応は「低開発経済学」の本なので、いろんなリサーチの結果が紹介されます。けっこう楽しいです。

とくに面白いのが国連に勤務する各国の外交官たちの「道義心」あるいは「腐敗度」。国連ビルの周辺は駐車場所がほとんどありません。どうしても違法駐車してしまう。しかし外交官は違法駐車しても罰金を払う義務がありません。違反ステッカーを無視してもまったく問題なし。

そんな状況で、一日に何回も駐車違反する外交官もいるし、まったくしない外交官もいる。罰金を払う人もいるし、払わない人もいる。そうした外交官の行動と、その母国の腐敗度ははたして比例するのか。どう思います?


「アルグン川の右岸」

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著者は遅子建。アムール川の上流、ロシアと内モンゴルの国境を流れるのがアルグン川。その中国側に住む狩猟民エヴェンキ族のお話です。ガルシアマルケス「百年の孤独」のような匂い。

簡単にいってしまえば、バイカル湖の付近から延々ロシアに追い立てられ、満州国の時代は日本軍の指示にしたがい、それが終わると今度は中国政府の少数民族定住化政策。狩猟で暮らしていたエヴェンキ族は麓に下りて定住しろと指示されます。

厳しい自然の中、シャーマンに従いトナカイとともに生活してきた狩猟民ですが、もし里に下りたらもはや誇り高き狩猟民ではありません。ネイティブインディアンやエスキモーと同じで、アイデンティティを失い農耕文化に吸収され、やがては消える運命でしょうね。集落のみんなが山を下りる中、語り手であった老女は孫と2人で残ります。孫の役目は老女が死んだ後、4本の大きな立ち木の間に遺体を風葬すること。仕事が終わったら、たぶん孫も里に下りるんでしょうね。


「北の無人駅から」

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渡辺一史著。この本で紹介されている「無人駅」は室蘭本線小幌駅、釧網本線茅沼駅、札沼線新十津川駅、釧網本線北浜駅、留萌本線増毛駅、石北本線奥白滝信号場。当然とはいえ、知らない駅ばっかりです。

本筋と関係ないですが、何人か伝説的な豪快痛快人物が紹介されます。一人は全国的にも有名な脱獄囚で五寸釘寅吉という男。五寸釘を踏み抜いてそ、板を引きずりながら何キロも逃走した。異常な体力の持ち主で、生涯に5回だったか6回だったか脱獄したはずです。すごい。そして知られていなかったのが第一章の小幌駅で登場する漁師・文太郎。

この人、とにかく豪快だったらしい。両親ともアイヌだったともいうんですが、運動能力がべらぼうで怪力で、おまけに大酒飲み。金が入ると小幌から隣の集落まで暗いトンネル歩いて飲みに行き(なんせめったに汽車は通らない)、たっぷり飲んじゃご機嫌でトンネル通って帰る。ある日飲みすぎて、ついトンネルの中で寝てしまった。それもレールに片脚をのっけたまま。レールに乗せると気持ちいいですかね。列車が来て片足轢断です。

ふつうはこれで死亡なんですが、なにしろ凄い人なんで、とりあえず止血して外まで這い出した。しかも懲りずにもう一度やった。やはり酔っぱらってたんでしょう、今度は踏み切りで轢かれて、残った脚を切断。病院へ運ばれる際も威張っていた(なんせ酔ってる)とか。それでも生き延びた。

非常に腕のいい漁師で、やがて釣宿だったか民宿を経営するようになり、大勢の子供を養った(たしか大半は連れ子)。舟に乗るにも何をするにも松葉杖と2本の腕だけで器用にこなしたそうです。腕の太さがふつうの人の脚くらいあった。たぶん相変わらず大酒飲みで、けっこう乱暴な人だったらしい。今でも家のあったあたりは「文太郎浜」という地名で残っている。北国の英雄伝説ですね。

追記

文太郎のこと、本を返す前にちょっと読みなおしたら、まだ存命だった息子の評もあった。義理の父親を称して「要するに清水の次郎長だわ。親分といえば親分。侠客といえば侠客。クダラナイといえばクダラナイ」。笑ってしまった。野獣のような体力、漁の天才、計算も早くて民宿経営、優しさもあるが大酒飲みで乱暴で博打が大好きで、7人の子供(2人は実子)は毎朝薪集めにこきつかわれる。文太郎は浜に陣取って一斗缶をガンガン叩いて遠くから指令を飛ばしていたそうだ。「寝る時間なかった。3時間も寝ればすぐ叩き起こされて漁に連れていかれる。地獄だった」と息子は少年時代を呪詛する。実感あります。


「忘れられた日本人」

ひとつ、忘れてた。★★★★つけてました。宮本常一。

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いわゆる民俗学の本ですね。戦後すぐあたり。ただし柳田なんかと違って、あんまり偉そうではない。ひたす足を使って爺さん婆さんにあってゆっくり話を聞く。文章は品があって読後感もいいです。

最初の方で紹介される村の「寄り合い」は面白かったです。なにか決めるべきことが発生すると、集会所にみんな集まる。ただし「8時集合。2時間の予定」なんな堅苦しいことはいわず、なんとなく集まって、なんとなく雑談する。テーマが飛ぶのは当然。ひたすらダラダラと話し続け、2日でも3日でもやる。用がある奴は中座するし、用がすむとまた顔を出す。

ずーっとダラダラやっていると、なんとなく方向性が見えてくる。「じゃ、そうすべか」と誰かが言って「そうだべな」とみんなが頷いたらそれで決着。こうやって決まったことには誰も逆らわない。誰かの指示や命令ではなく、自分たちで決めたことだから。

楽しい本でした。家内が「宮本常一、いいよ」と言っていたのも納得。


★★★★ 北海道新聞
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拾い物みたいな本でした。タイトルだけ見たら、いかにも鉄道オタクの本ですわな。しかし中身はズシッと重いです。しかもどんどん読める。あんまりベストセラーになるような本でもないです。

要するに北海道の無人駅をキーワードに、北海道の歴史と現実を見つめてみよう。なぜ無人駅になってしまったのか。漁業、自然保護、観光、流氷、農業・・・。

「北海道の自然は雄大」とか「美しい丹頂を保護」とか「農民たちは意欲に燃えて笑顔がすばらしい」とか「農産物はみんな美味しい」とか。そんな観光パンフレットみたいな言葉で北海道を理解するのはやめよう。手つかずの自然とは貧しいということでもあります。丹頂鶴は田んぼを荒らします。農民がみんな正直で働き者だなんて何いってんですか。

といって、こうした「勘違い」を高所から批判する本でもないです。どちらの側に立とうということではなく、事実を知ろう。少なくとも語る際に決して奇麗事のウソをつかない(すごく難しいことです)。

農業をテーマにするんなら、農民の話も聞き、悪者になりがちな農協役員の話も聞く。農業技術指導員(だったかな)にも教えてもらおう。いろんな立場の人から話を聞くと、話はどんどん複雑になります。誰が悪くて誰が良いなんてシンプルなもんじゃない。まったくスッキリしない。でもそれが現実です。

ま、少なくとも「都会の善男善女」のご意見だけは聞く必要なし。マスコミの影響もあるけど、みーんな大きく勘違いしてるんだから。知床へ家族旅行して、可愛いヒグマの子にパンを投げてあげるような善意の人たちのことです。


★★★ 角川書店

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副題は「なぜヒトは人間になれたのか」。何年か前のNHKスペシャルを書籍化したもののようです。テレビ畑の人ってのは、あんまり文章がうまくないなあ。ワンパターン。品がない。また映像で説明したものを文字にしているので、どうしてもわかりにくい。そうした欠点は多いんですが、ま、いい本だったと思います。


要するに、人類が出アフリカしてから世界中に拡散し、増殖をし続けた結果としてどうなったのか。脳になにか変化があったのた。あるいは発展には「なにか人間らしさ」がかかわっていたのか。そういう面倒なテーマです。「心」の解明。

ごく大雑把に言うと、いまでも古い形で生存している狩猟民族たちは「ケチ」と「自慢こき」を極端に嫌う。場合によっては集団で制裁を加えるし、たびかさなると集落追放とか死刑にもする。制裁を加える場合、構成員みんながやることが重要らしい。個人対個人の関係にしないためです。

ケチと自慢こきがなぜいけないのか。その理由は明白で、狩りの獲物を誰かが余計にとるようでは集団生活が崩壊してしまう。とった肉は男も女も完全平等に切り分ける。分けてもらう人は絶対に礼なんか言わない。獲物をとってきた男も偉そうにはしない。「オレが殺した鹿だぜ」と自慢するような奴は(潜在的に獲物の取り分を主張している)やはり平等の精神に反している。

ま、狩猟で得た食料ってのは、溜め込むことができません。すぐ腐ります。自分だけ余計に溜め込んでもたいしたメリットはない。ちょっと余計に取り分を得るより「あの人は公正なやつだ」と思われたほうが得策。

つまり人間は周囲の「目」を意識して生きてきた。「コインを入れて飲んでね」と紙を置いた無人のコーヒーコーナー。もちろん金を払わない横着がけっこういます。でもそこに「目」の絵を飾ると、不思議なことに金を払う率が一気にあがる。現代人でも、見られているという意識があると、勝手なことができなくなるらしい。

どうして公平が必要なのか。それは助け合いの文化によるんだそうです。石器時代、果実を拾えた女もいれば、拾えなかった女もいる。どこかの地域の獲物が不作になっても、隣の地域では獲物がすこし多いこともある。完全独立採算で生活する連中と、可能なら援助しあう連中を比較すると、助け合い文化のほうが生き延びる確率が高くなるんだそうです。

ちなみにチンパンジーは時として「要求されれば相手を助ける」行動もとります。しかし自分から「気をきかせて援助する」ことはしません。この点でチンパンジーと人間はあきらかに違う。「明確な要求がなくても援助してあげる」のが人間です。

石器時代にもみんなが珍重した貝や石のネックレス、これも単なるファッショではなく「これだけプレゼントが多いんだぞ」という証拠だったとか。ネックレスは自分で作って自分で飾るものではなく、誰かにプレゼントされるもの。したがって何本ものネックレスをしている人間は交際範囲が広い。交際が深い。困ったときにも頼れるような親戚や友人の数です。

そういうわけで、そもそもの人間は助け合って暮らしていた。高邁な心なんかじゃなく、そうでないと生き延びることができなかった。助け合うことのできるDNAだけが成功したんでしょうね。

そうそう。アフリカ地溝地帯で樹上から草原に下りた原初の人類。けっこう上手にやってきたような印象もありますがとんでもない。ほんんどは上手にやれませんでした。どんどん食われてしまったり飢えたり。

そういえば昔「ヒトは食べられて進化した」という本を読んだことがあった。人類の歴史とは、食われる歴史であった。納得できる主張でした。猛獣に食われ続けた人類、それで言語能力を発達させたのかもしれない。あっちの山には豹がいるぞ。こっちの山には食い物があるぞ。この棒を使うと強くなれるぞ。一人じゃ無理だけど三人ならシカを狩れるかもしれない。

こうして人類は進化してきた。集団定住がすすんで、やがて農耕が普及してようやく「食料をためこむ」ことができるようになった。つまりは貧富の差がうまれ、身分が分けられ、平等の精神はそれほど重要視されなくなった。現代社会です。

そうそう、思い出した。飛び道具の話もあったな。初期なら投擲具の普及。やがては弓。獲物を狩るにも画期的だったし、戦争にも役立つ。棍棒で敵を殺すのと飛び道具で殺すのでは心理的な負担がまったく違うらしい。おまけに原初の部族社会というのは「身内には親切「「隣の部族は敵」というもので、人間の心のなかにはずーっと「親切にしたい」という心と「やっつけてやりたい」という心が共存している。どっちがどう発露されるかはケースバイケース。

ま、そんなふうな本でした。もっといろいろ書いてあったんですが、ほとんど忘れた。歳をとっての読書ってのは目の粗いザルで水をすくっているようなもんです。ガバッとすくって滴が残る。その滴が、ま、知識というか、わずかな記憶になってくれる。

★★ 講談社
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厚い上下巻です。返却期限が迫って、後半は駆け足速読。というより単なる飛ばし読みか。身もフタもない言い方すると、飛ばし読みでもさしたる問題はない本と思います。それなりに面白い本ではあるんですけどね。

えーと、文革で内モンゴルへ下放された知識青年たちが、そこで初めて本物の遊牧文化にぶつかる。羊や馬を養育し、ろくな睡眠もとれずに狼と戦い、冬は厳しい寒さ、夏は酷暑と蚊の襲来に苦しむ。

なんとなくモンゴルはずーっと貧しい草原と思っていましたが、もちろん草が生い茂る地域もあり、湖もある。ただし地表が浅いので、ちょっといじめるとすぐ不毛の沙漠になってしまい、なかなか回復しない。多数の馬がうろうろするだけでもヒズメに掘られて草が枯れてしまうらしい。

テーマは二つ。まず狼の子を掘り出して(メスは深い穴の中で子を育てる)、そいつを育てるというお話。野生狼が犬みたいになついてくれたら楽しいですね。大きくなったらモンゴル犬とかけあわせて新種のシェパードが生まれるかもしれない。

しかし狼の子はいつまでたっても狼です。餌をくれる主人にだけは多少気を許すけれども、それだって場合によっては牙をむく。噛みつく。鎖につながれて気が狂ったように騒ぎ、荷車でひっぱろうとしても死ぬまで抵抗する。絶対に服従しない。

夜、他の狼たちが呼びかける遠吠えを聞いて「ここにいるぞ」と自分もなんとか答えようとします。不器用に遠吠えを試みる。でもたぶん、目のあかないうちに親から引き離された子狼は「狼語」がわかりません。仲間として認めてもらえない。失意のうちに子狼は死にます。

モンゴルの高原では、狼は生態系のトップです。狼が黄羊(モウコガゼル)を食べ、タルバガン(シベリアマーモット)を殺し、野兎を狩る。住民たちにとって狼は天敵です。しかしだからといって狼を殺しすぎると、黄羊や野兎があっというまにはびこる。草原に穴を掘りかえし、草を食い荒らし、そうなると羊や牛、馬の放牧も不可能になる。しかし黄羊や野兎を殺しすぎると狼が飢えて、こんどは馬や羊を襲う。ようするに、バランス。何千年もの間、モンゴルの民たちはその微妙なバランスを崩さないように生活してきた。

しかし南からきた役人や兵士や農耕民たちにその理屈は通じません。草原は広大じゃないか。もっともっと羊を飼え、野兎を殺しつくせ、狼を全滅させろ。農地にしよう。食料増産は国家の大方針だ。指令に抵抗するのは階級の敵だ。そうやって、緑ゆたかだった内モンゴルの高原は沙漠になる。

ま、そういうことですね。かつての知識青年たちは今は都会で暮らしていますが、何十年ぶりに内モンゴルに戻ってみると、もうそこに草原はない。国境線の向こう、外モンゴルにはまだ緑が残っているようですが。

もう一つ。長い小説の最後のほうでは延々と中国史と「狼に学んだ遊牧民族」との関係考察がなされます。中国の歴史は常に「遊牧民族」と「農耕民族」の戦いだった。北の(狼の血をもった)遊牧民族が南に攻め込んで国家を建てる。しかし膨大な農耕文化の漢民族はその猛々しさをすぐに薄めてしまう。狼でなくなった国家は、やがて滅びる。そうやって折々に狼の血をまぜこむことでリフレッシュされ、中国ウン千年はなりたってきた。ま、そういうことです。

たしかに中国史をながめると、中原の北にもたくさんの国家が誕生しています。それが南に攻め込んだり、南から北伐したり。そうやって血や文化がミックスされる。たとえば始皇帝の秦なんてのは、どうみても遊牧民族系ですよね。三国志の曹操の魏だって、なんとなく北方系。元はもちろんそうだし、清もそう。唐もそれっぽい。「歴史をみると、つねに北の国家は南の国家より強い」だそうです。なるほど。

本筋と関係ないですが、大帝国をつくりあげたモンゴルはもちろんモンゴル民族。オスマントルコは突厥。民族大移動の引き金をひいたフン族はたぶん匈奴系だし、そのゲルマンの連中もたぶん遊牧系。さらにいえばローマ帝国も狼の乳によって始まった。帝国はすべて遊牧民族によっておこされた、らしい。


★★★ 中央公論新社

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たぶん幕末ごろの伊勢松阪。商家の内儀と女郎の因縁話です。

ストーリーの背景音としてお蔭参りの人々の群れ。松阪は伊勢参りの道筋です。通りがザワザワする中で商家の内儀は旦那の浮気が気になるし、女郎はなんとか陰の女から「表の妻」になりたいと願う。つまりは天の邪鬼がなんとか瓜子姫になり代わろうとするわけです。

瓜子姫のお話、子供の頃によく聞きましたが、唄が入るんですよね。瓜子姫の乗り駕籠に天の邪鬼が・・という唄。私の聞いた昔話では、瓜子姫は裏の柿の木に裸で縛りつけられました。いろんなバージョンがあるようで、殺されたり食べられたり、顔の皮をはがされてその皮を天の邪鬼がかぶる。

無事、皮をかぶり続け、騙しおおせて天の邪鬼が幸せに暮らすバージョンもあるようです。

で、この「瓜子姫の艶文」も、天の邪鬼の女郎がひかされて商家の内儀におさまったような感じでもあるんですが、ここで作者は時空変換をする。ほんとうにそんな出来事が起きたのか、それとも違う世界の話なのか、後を継いだのか入れ代わったのか、モヤモヤしている。謎。

そして最後はおどろおどろしい因縁話の決着。表通りでは最後までお蔭参りの狂奔、雑踏と唄。そうそう、最初から最後まで魔羅と奥の院と淫水と・・・えんえんと描写も続きます。なんせ女郎屋がメインの舞台なんで。坂東眞砂子らしい小説です。


そうか、知らない人もいるんだな、きっと。

瓜子姫のお話(いい加減バージョン)

瓜から生まれた瓜子姫。可愛い子に育ちました。
爺さんと婆さんが外出することになり、しっかり戸を閉めておきなさい。アマンジャクが来ても決して戸を開けてはなんね、と言い聞かす。

瓜子姫がトッカラピンカラと機を織っていると(いい子はたいてい機を織る)、もちろんアマンジャクがやってきます。「開けてくれや瓜子姫」「いーや、開けん。ダメと爺ちゃが言うてたで」「ほんなら開けんでもいいから、ほんの一寸、隙間をつくるだけでもいいから」「うーん、ほんの少しならいいか、ほれ、ほんの少し」

細い隙間にグイッと黒い爪を差し込んだアマンジャク、えーいガラガラッと戸を開けて、あっというまに瓜子姫をまる裸にして縛りあげます(食べてしまいます) 。

そこへ瓜子姫の評判を聞きつけた殿様(長者)から迎えの駕籠が到着。瓜子姫のきれいな着物を着たアマンジャクは、いそいそと駕籠に乗り込みます。しかし家から駕籠が進み始めると、木の上のカラス(スズメ)が唄を歌います。♪あれま、不思議、瓜子姫の乗り駕籠に乗っとるはアマンジャク・・・。ここで正体暴露とあいなります。

お話の締めは決まり文句。私の田舎では「イチがぶらーんとさがった」でした。どういう意味だろ。

★★★文芸春秋
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姜戎という作家の「神なるオオカミ」をボチボチ読んでいます。悪くはないけど読み出したらやめられない・・という本ではないので、なかなか進まない。ジュブナイルふうの翻訳があまり好かん。期限までに読了できるかどうか怪しい。

この本、文革でモンゴルに下放された知識青年が遊牧民の暮しにだんだん馴染み、やがてオオカミの子を飼う話です。そして都会育ちの下放青年はやたら「かつてのモンゴル兵の戦い方は賢いオオカミの戦術そのものだ」とか感動します。そうかな・・・と読み進むうちに「蒼き狼」を読みたくなった。井上靖です。

はい、ありました。本棚に埃をかぶっている。抜き出すとしっかりカバーがかかっていて、これを剥がすのも面倒なので写真は箱だけにしますか。えーと、昭和55年の第19刷、1100円

最初のほうはテムジン少年がいろいろ苦労する部分ですが、そこは省略して80ページあたりから読みました。敵対するメルキト部に新婚の女房をさらわれて、でもジーッと我慢。ついに30人ほどの手勢をまとめて殴り込みかけようと決心したところからでした。兵士も少ないしろくな武器もない。しかたなく付き合いのあったケレイト部のトオリルカン親分のところへ武器を借りにいく。すると意外や意外、兵1万を動かしてやろうと言われる。

もちろんトオリルカンにとっては渡りに舟、他部族を攻める絶好の口実をもらったわけです。「正義の味方」を標榜するため、さらに有力武将であるジャムカにも声をかける。1万+1万+30人が、メルキトの1万(程度だったかな)を攻め滅ぼして略奪する。ほんと、弱肉強食。

そして戦いが終わって略奪品や女を山分けしても、両軍は牽制しあってなかなか立ち去らない。若いテムジンは当初理解できなかったんですが、ようするに両軍とも相手をまったく信用していないわけです。退却するところを後ろから襲われたら危ない。だから動くに動けない。

なるほどね・・・とテムジンも賢くなる。そういう世界なんだ。礼儀は正しく、でも絶対に他人を信用しない。信用して殺されるのはバカだ。

それからテムジンのボルジギン氏族は急速に成長していく。たぶん苦労はあったんでしょうが、なんとかジャムカ親分を滅ぼし、トオリルカン親分もやっつけ、他のもろもろもぜーんぶ潰してモンゴル高原を制圧。西のナイマンを征服してからだったか、ついにクリルタイで「ジンギス汗(チンギスハン)」に推挙される。40代だったか50代だったか実際には不明ですが、けっこう歳はとってたようです

その後のことは、ま、周知の事実ですが、小説では長子ジュチへの愛憎、愛妾忽蘭(クラン)との緊迫感のある関係が面白いところです。もうひとつ、「矢のように突き進め」と指令された弟や将軍たちが、ほんとうに矢のように突き進む。なんせ、どこで止まれという命令がないわけです。アナトリアだろうがロシアだろうがブルガリアだろうがポーランドだろうが、やたらめったら突き進む。

いまさら「集合!」と命令かけても、戻ってくる武将もいれば戻らない連中もいる。ま、実際問題、戻れないんだろうな。老いたチンギスハンはいつになっても「自分の故郷はモンゴル」と思っているけど、他の連中からするとモンゴル高原ははるかに遠い。それぞれの派遣先では実質的に広大な王国を支配しているようなものだし、その土地々々の様式の邸に住み、華やかな服を着て珍しい食べ物に馴染んでいる。モンゴルでもチンギスハンの糟糠の妻は肥え太って歩くことさえままならない。

チンギスハンだけはあいかわらずモンゴル式のゲルに住み、モンゴル式の服を着て(たぶん)羊肉と馬乳酒を飲んでいたんでしょうね。自問自答します。若いころ、自分は貧しいモンゴルの女たちに豪奢な暮しをさせ、輝く宝石をつけさせると誓った。そのためもあって蒼き狼となって戦い続けた。いまの狼の子供たちの豊かな暮しを非難すべきではない。不本意ではある。しかし口には出さない・・・。

ちょっと哀しいお話でもありますが。井上靖の小説、みんなストイシズムの香気があるんですよね。

別件ですが、この単行本は文芸春秋刊。しかし文庫は新潮社です(そもそもの連載は文藝春秋だったらしい)。発行年度を考えると文藝春秋→新潮社→文芸春秋、かな。こういう不思議なこと、けっこうありますね。不思議。


★★ 文芸春秋
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何かでこんな本があると知り、図書館で探してみたらありました。借出して一読。

岡田茉莉子がとくに好きというわけではありません。ちょっとバタくさいというか、きつそうというか、あの頃だったら(何十年前か)どちらかというと若尾文子のほうが好きだった。今となってはどっちもどっちですが。気になって調べてみたら、岡田茉莉子は東宝、若尾文子は大映のニューフェースとしてデビュー。同時期です。1951年。昭和26年か。

ちなみにこの自伝、いろんな監督や俳優の話が出てきますが、共演したこともある若尾文子についての言及はあまりありません。関心がなかったのか嫌いだったのか、それは不明。

えーと、何か感想を書こうと思ったんですが、何もなし。比較的坦々とした、しかし詳細な自伝です。たぶん、出た映画をほとんど網羅している。個性があって、意志が強くて、強烈なプライドをもった女優。

自分で数年かけて書いた」と本人は言ってるようで、本当かもしれません。プロのゴーストが書いたらもう少し面白く盛り上げている。残念ながら高峰秀子とか岸惠子のような才気あるものではないです。資料本のような雰囲気もありました。


★★★ 草思社文庫
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副題は「滅亡と存続の命運を分けるもの」。タイトルの「文明崩壊」は大げさで実際には「社会の崩壊」。ある程度繁栄した国・社会やコミュニティがどうして崩壊したのか、程度の内容です。

冒頭、著者がよく避暑にいくモンタナの話がでてきます。米国モンタナ州。北はカナダ国境、西がアイダホでもう少し西にいくとワシントンとかオレゴン。南はワイオミングです。州の半分はロッキー山系にかかり、寒いけれども風光明媚な場所らしい。山があり、谷があり、森があり、川ではマスが釣れる。鹿なんかもいるんでしょう。

いかにも良さそうなリゾート地なんですが、実際にはいろいろな問題をかかえている。まず、人口が少ない。鉱山が多かったんだけど、最近は寂れている。その鉱山が原因の汚染も大きな問題になっている。林業も盛んだったけれども、やはり伐採しすぎが問題になっている。

基本的には貧しい州です。しかし近年リゾート地ということで州外の金持ちが別荘をどんどん建てる。しかし別荘族はしょせんよそ者です。地域の農場とか森林を維持するためには地道な努力や育成が必要なんですが、よそ者はそんなことにまったく関心がない。とにかくいい景色があって、とりあえずマスが釣れて鹿撃ちができればいい。景観が悪くなれば出て行くだけのことです。

結果的に地価だけ不釣り合いに急上昇しました。地元農家にとっては困ったことになる。農業を継続していくには地価が高くなりすぎて、採算が合わない。儲からない農地が減って、どんどん別荘区画が誕生する。オヤジが死ぬと子供たちは土地を売り払って州外に出て行く。オヤジがまだ元気でも、高校を卒業したら子供たちはやはり州外へ出て行く。不動産と観光業だけ盛んでも、地場産業が衰退しているんで州の中には希望がないわけです。

けっこう陰々滅々な話なんですが、そんなことより「へぇ、モンタナにも問題があったんだ」と驚いたのが実情です。美しい山と空気のきれいな森の中で、みんな幸せに暮らしているのかと思い込んでいた。大間違いだったらしい。

で、浅ましいことに、まっさきに考えたのが「ではどこの州がいいんだ」ということ。本質的にミーハー。そんなことはありませんが、もし米国に住むのならどこの州がいい?

こういうアホらしいことを考えるのはけっこう楽しいです。うーん。ただし、非常に難しい。暑すぎず、寒すぎず、地震やハリケーンや竜巻の危険もなく、空気もきれいで便利でもある。東北部は雪が深いしアリゾナやテキサスなんかは乾燥して暑そう。シアトルは良さそうだけど天気が悪い。カリフォルニア南部のラホイヤなんてのが人気らしいですが、はて。

とかなんとか。

肝心の本書の内容ですが、要するに人類社会の未来は明るくない。環境被害の問題、気候変動、政治や社会の対応。みんな大きな問題だらけです。おまけに人口問題。ごくシンプルに考えても、第三世界の人々がみんな西欧社会並みの生活をしようとしたら(彼らとしては当然の希求)、この世界は対応できるだけの資源を持っているのか。おまけに貧しい国ほど人口はどんどん増える。

真面目に考えるとかなり暗い気持ちになります。しかも遠い未来の話ではなく、半世紀もたたないうちにパンクするかもしれない。みんな必死に(自分のことだけ考えて)頑張っているけど、それは要するに「最後に飢える権利」程度かもしれない。みんな飢えて死ぬ。その集団の最後の一人になることに大きな意味はあるのか。

イースター島。権威の象徴であるモアイを造るためには、運搬用のコロに使う丸太が必要。樹皮でつくったロープも必要。どんどん木を伐り、どんどん緑がなくなり、そして最後に残ったたった一本の木を切った人間は何を考えたのか

ちょっと印象深いシーンですが、たぶんその男は何も考えていなかった。これを切ったって、何か他の手段はあるさ。どっかに他の木もあるさ、きっと、たぶん。そうやってイースター島は滅びた。グリーンランドやヴィンランドのノルウェー社会も滅びたし、マヤ文明も滅びた。他にもたくさんの例証があげられています。

そうそう。日本の徳川幕府による森林対策の話も出てきます。ちょっと事実誤認があるような気もしますが、ま、許容範囲かな。他にもあちこち強引な部分が感じられますが、大筋とはして納得できる内容です。未来は暗い。


★★★ 早川書房
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これも村上春樹訳。他の訳がどうだったか、完全に忘れてしまいました。ついでに言えばこの「高い窓」も読んだことがあるかどうか記憶になし。チャンドラーの小説は、雰囲気だけ記憶に残っていてもストーリーは忘れがちです。

で、読了。うん、なかなか良かったです。完全にチャンドラーの世界。もちろん例によって展開に「?」な部分は多々ありますが、比較的少ないほうかな。ちなみに今回のマーロウ、一回も殴られません。眉根にシワよせて飲んでばかりいます。
(マウロウの生活習慣の問題点。いつも酒の飲み過ぎ。健康によさそうな食事をしたことがない。おまけにしょっちゅう殴られる)

たいしたことじゃないですが、小説の冒頭はパサディナの屋敷から始まります。パサディナ? 一瞬、フロリダあたりを想像してしまったけど、そんなわけはない。念のため調べてみたらロサンゼルス北東部の高級住宅街だそうです。

ついでに、ヘンテコリンな女性秘書の実家はウィチタ。雰囲気としてはテキサスとかあっち方面かと思いましたが、調べてみるともう少し北のカンザス州でした。中西部中央。米国のヘソみたいな位置で竜巻の名所、オズに飛ばされたドロシーの家があったところですね。そうそう。大草原の小さな家のローラもここでした。

そういう草原の土地で育った神経質な若い女が富と頽廃のロサンゼルスに来て働いていた。ま、そういうことのようです。


★★★ 新潮社

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14世紀英国を舞台にした、ま、ラブロマンスです。タイトルから想像できるような、修道院の地味な挿絵職人の話ではありません。

英国の14世紀末というのは、百年戦争のまっただ中、バラ戦争が始まる少し前の時代です。ポワティエの戦いでフランスをやっつけた黒太子は王位を継ぐことなく死に、一代スキップして即位した息子のリチャード2世はまだ幼少。で、よくあるパターンですが叔父のジョン・オブ・ゴーントが権力をふるう。ジョン・オブ・ゴーントってのはランカスター公で、彼の子供がクーデタをおこしてランカスター朝の始祖となる。それがキッカケでやがてバラ戦争。

百年戦争がだらだら続いている時代なので、リチャード2世(実権者はジョン・オブ・ゴーント)は戦費の調達に苦しみます。仕方ないから税金を重くする。これじゃ食えない・・てんで農民は反乱をおこす。ワット・タイラーの乱です。

当時のカトリック教会は腐敗しきっていて、「アダムが耕しイブが紡いでいた時、だれがジェントリーだったか」などど平等思想を歌にして歩く説教師が人気をえる。おまけに法王庁はローマとアビニヨンに分裂している。

こうした教会の弱体化につけこんだ(?)ジョン・オブ・ゴーントは、聖書の英語訳をやってるジョン・ウィクリフを応援する。英語訳されると、庶民が聖書を読むことができて、聖職者の権威に疑問を持つ可能性がある。困ったことです。敵の敵は味方。ウィクリフは教会の敵なんで、これを応援することは間接的に教会の権威を弱めることになる。

ややこしい時代です。

無知な農民たちを教会が支配している中世ってのは、悲惨ですね。王権貴族の支配だけでも大変なのに、さらに教会が権威をふるう。十分の一税を収奪する。文句をいえばもちろん首吊るしに火あぶり。ついでに王権と教会はいがみあって、いがみあっているけど上層部では結託している。司教区を持てるのはたいてい有力貴族の子弟ですね。日本だったら親王がいきなり天台座主になるとか。

教会にとって、庶民はなるべく無知なほうがいい。庶民農民に知恵がついたら大問題です。伝統的にカトリック教会が信徒の「無知」をよしとするのは、そうした戦略があったんでしょうか。統率しやすいのは無知にして純な羊の群れ。ただ困ったことに庶民だけでなく、司祭連中もたいていは無知だった。ラテン語のお祈りを少し暗記していればそれで十分。資質的にも疑問符な連中が大部分だったらしい。

この小説に登場する悪役にノリッジ司教ヘンリー・ディスペンサーという男がいます。たまたま僧職についているけど、性格的には武人。小説の終わり頃、反乱勢力鎮圧のためこの司教が剣を帯びて出陣するシーンがあります。史実らしい。戦う司教。

こういう時代、亭主が死んでしまった小さな館の寡婦(女領主)はどんな立場か。ささやかながら領地があるので、周囲の貴族連中はなんとか自分のものにしようとあの手この手。教会の坊主どもも口実をみつけて喜捨をむしりとろうとする。女領主は頭が痛いです。おまけに土地を管理させている差配人がまったく信用できない。戦争中なんで、まともな男手がたりないんです。そうそう、王にはこうした寡婦の領地を召し上げる権利があったらしい。

そんな状況に、平民ながら男前の絵師とその愛娘が馬に乗ってやってくる。ロマンスの始まり始まり。

ロマンスそのものはたいして興味をひきませんが、時代背景は面白いです。かなり忠実。登場人物もその時代にふさわしい発想で行動し、次々と、実にあっさり死にます。


寡婦の領地を召し上げる

えーと、確証はありませんが、貴族の結婚は王の許可が必要です。勝手に閨閥を作って連携されるのは恐いですから。あえて言えば、王は臣下の結婚を勝手に決めることもできる。しかしこれを恣意的にやられては困るので、貴族たちは許可料を払ったり、宮廷で王のご機嫌をとったりしてある程度自由な結婚をします。

貴族の寡婦といっても、単なる奥方というケースと、その土地付きの女性(相続人) というケースがあります。相続権をもった女性なら、女伯爵ですね。たいていは息子が成人すると後を継がせますが、たまには子供がいないこともある。あるいは娘がその相続権を継ぐとか。そうなると、求婚者がむらがります。

タテマエとしては、貴族は王に対して武力で奉仕する義務があります。しかし寡婦にはそうした力がない。そういう理屈で、王は寡婦に対して「修道院に入って亭主の菩提をとむらったらどうだ」と勧告することもできる。ま、実際には王に一族の領地をとられたら困るんで、死んだ亭主や寡婦の親戚とか友人とかがナントカして妨害するでしょう。

王があんまり強引にやりすぎると、たいてい貴族連中は結束してクレームをつけます。明日は我が身。勝手は許さないぞ。しかしたまたま友人も親戚もいない寡婦だったらどうなるか。狼だらけの森に迷いこんだ赤ずきんですね。ということで、この小説の寡婦は、意に染まない近所の強欲な有力貴族(ガーター騎士)の求婚に対して苦労するわけです。

少し違っているかもしれませんが、だいたいは合っているでしょう、きっと。

★★ 新潮社
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この作家は初読。香港とか台湾を舞台に活動しているようです。現在は北京在住らしい。ただし著書は大陸で発禁処分

要するに近未来小説ですね。西欧圏が大不況になり、大混乱。体制の違う中国だけが生き残って一種のモンロー主義で内需拡大。つまりは「盛世」の御世です。

景気はいいし国民は幸せだし、ま、党中央はあいかわらず強権だけど、でもいいじゃないか。100人のうち95人が幸せと思っているなら、その社会は大成功でしょう。それ以上、何をのぞむ。最大多数の最大幸福。

でも残りの数パーセントにとっては、合点がいきません。なんかおかしい。どうしてみんな幸せなんだ。オレは(ワタシは)幸せではないぞ。ということで、数人の不満分子が連携し、真相を探ろうと試みる。

ちょっと冗漫な部分もありますが、現代中国の実情を知るには格好の小説です。六四天安門事件のあつかいとかネット監視、中央宣伝部の位置づけ、締めつけとして時折発動される「厳打」キャンペーン。(「厳打」という言葉、この小説ではじめて知りました。一斉取締り。常に行き過ぎとなり、点数を稼ぐため即決裁判でどんどん有罪にされる。)

ま、発禁処分は当然ですね。むしろこんな作家が北京に住んでいられることのほうが興味深い。みなさん、獅子の尻尾の周囲でダンスをしているようなものなのかな。注意深く踊っている限り大丈夫。ステップを間違えると致命傷だけど。


★★★ 文春文庫
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電車の中で読もうと、本棚から適当に抜き出した文庫本。超速球の投手がチベットかブータンから大リーグにやってくる話だったような。副題は「シド・フィンチの奇妙な事件」。

大筋は合ってましたが、雰囲気はかなり違ってました。野球ファンの書いた痛快野球小説のような設定なんですが、実際にはベトナム帰りで後遺症に苦しむライターと、実生活になじめない女の子、求道者として精神生活に生きようとする不器用な英国人青年。3人が凸凹おりあって奇妙で居心地のいい共同生活をする。ま、そんな小説です。

チベットの僧院にたどり着いた青年は、敷地に侵入してくる雪豹を追い払うために小石を投げる術を学びます。精神を統一することでなんと時速270キロ。もちろん針の穴を通すようなコントロール。で、野球場のデザインが曼陀羅を連想させることから、青年修行僧は投手という存在にちょっと興味を持つ。なんなら大リーグに入ってもいいですよ。

時速270キロの速球投手が加わったら、野球というゲームはどうなるか。投げる必要のあるのは9イニング27球。もちろん完全試合です。バッターはボールの軌跡さえ見えません。投げた。ほとんど同時にミットの衝撃音。後方にふっとんだキャッチャーは痛みに苦しみもだえている。審判は確信もないままストライクを宣言するしかない。なにしろ見えないんだから

凄いといえば凄いですが、しらけるでしょうね。興奮する要素がまったくない。ピッチャーはただマウンドに歩いていって、ウォームアップもなしでいきなり投げる。スドーン。また投げる。ズドーン。坦々とそれの連続。

ま、そういう具合で新星シド・フィンチは球界に衝撃を与え、そして去ります。修行僧フィンチは人間生活へ復帰しそうだし、女の子も自分の場所を発見できそうだし、中年ライターはようやくタイプライターで文字を打てるようになる。たぶん。

けっこう楽しい読後感でした。ちなみに腰巻きの「野茂・・・」はほとんど内容と無縁です。そういう小説ではありません。


★★ 河出書房新社
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副題は「名もなき古代の海洋民はいかに航海したのか」。たまにこういう本も読みたくなります。

要するに古代の人々はどのようにして海を渡ったのか。なぜ未知の水平線の彼方へ漕ぎだそうとしたのか。視認できる島なら納得できますが、そうとは限らない。何百キロという航海もしています。

大昔、たぶんミッチェナーの「ハワイ」を原作とした映画を見た記憶があります。ポリネシアの連中が遠大な旅をしようと決める。北へ北へ、茫漠たる大洋を航海していると、やがて神の使いの神聖な鮫があらわれて彼らを導いてくれる。こうして人々は常春のハワイにたどりついた・・・。この冒頭のシーン、けっこう感動的でした。

たぶん実際には、まず東南アジアに住み着いた人々がニューギニアとかオセアニア北部へ航海したらしい。大昔は海が低くて、渡るべき距離が少なかったらしいので、ま、一応は納得できます。船出にはいろいろ事情があったんでしょう。食えないとか、ケンカしたとか、女にフラれたとか

しかしある時点から、単なる冒険旅行ではなく、本格的なポリネシアへの計画移住が始まる。ラピタ人という連中。たぶんアウトリガーのけっこう大きな舟に女も子供も豚も乗せ、有用植物の苗も乗せて完全に引越しです。すごい冒険と思いがちですが、著者によるとあんがい危険は少ないんだそうです。モンスーン地帯では、だいたい定期的に風向きが逆転する。とりあえず東に延々と航海しても、数カ月待てば逆風を利用して帰還することも可能。もちろん星や太陽を見て、一定の航路を維持する必要はあるけど。航海に必要なのは知識と我慢、自制、忍耐。けっしてギャンブル心ではない。

著者は子供の頃から沿岸で小舟に乗ってウロウロした経験があるらしい。幼いころから海に暮らした人間にとって、島影を見分けたり潮の流れを測ったり鳥の飛び方を見たり星を見ることは決して至難の技ではない。猟師が森の中で迷わないのと同じレベルなんでしょうね。

ということで、動機があって頑丈な舟を作る技術があれば、海に乗り出すことはできる。その海域によって必要な舟の作り方は異なりますが、少しずつ改良をくわえて立派な船になった。

メラネシアからポリネシア、東地中海、北海、インド洋、アリューシャン。世界の海について記述していきます。エッセイのようでもあり、各地の舟の構造紹介でもあり、古代人のお話でもあり、なんともジャンルの明確ではない一冊です。

題名から想像するようなロマンチックな内容じゃないです。学術書ではないけどわりあい単調で退屈。でも読んでよかったと感じられる本と思います。


★★★ 文藝春秋

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とくに読むつもりもなかったのですが、たまたま図書館の書棚にあったので借出し。1カ月ほど前によんだ上巻の続きです。

要するに時間旅行した主人公がなんとかケネディ暗殺を阻止しようとする。しかし時間旅行の設定として「特定の日時、特定の場所にしか戻れない」という制約があるため、63年11月22日がくるまでの長い時間を現地で暮らさないといけない。することもないので、ダラス近くのとある高校で教職につきます。もちろん経歴は詐称。

で、背が高くて不器用な女性(すぐ躓いて転ぶ)と知り合う。ずーっとリー・オズワルドの監視をしながら、ついでにこの女性とも愛し合う。だんだんどっちが本筋かわからなくなるんですが、ま、そうした手法でスティーヴン・キングは長い長い話をなんとか繋いでいく。

どうして会うなりオズワルドを無力化しないのか。そこがこの小説のミソで、要するにオズワルド単独犯という確証がないわけですね。もし共犯者がいるとすれば、オズワルドだけ殺しても意味がない。人を一人殺して(とうぜん、警察に追われる可能性が高い)それでも結果的にケネディが死ぬんじゃあんまりです。

結末はもちろん書けませんが、けっこうハラハラドキドキのストーリーでした。ついでに言えば、全体のトーンは、ちょっと叙情的かつ暗いです。

★★★ 新潮社
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「おーい、クルマ、こっち入れこっち入れ」
え?誰だ?とエビが振り返ると、シャコだった


落語の一節なんでしょうね。笑ってしまった。たしか「海老」についてのエッセイで紹介されていました。

阿川弘之の本、何を読んだことあるかなあ。うーんと考えても出てきません。たぶん連合艦隊とか山本五十六、井上成美の本は読んだと思う。それ以外に何があったけ。

ということは別にして、この人のエッセイは楽しいです。勝手なことばっかり書いてますが、たくまざるユーモアというか、ま、味がある。品がある。忘れてましたが、この8月に亡くなったんですね。えーと、94歳か。大往生というべき。病院でも最後までローストビーフやステーキを食べて(こっそり)酒やビールも飲んでいたらしい。いい死に方です。


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