「自分史ときどき昭和史」山藤章二

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★★ 岩波書店
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山藤さんは昭和12年の生まれなんですね。「さん」をつけるのは、ずーっと昔、まだ山藤さんが新進気鋭、まだ胃を切る前でけっこう体格よかった頃かな、ちょっと面識を得たこともあったりで、なんとなく呼び捨てがはばかられる。

本の中身は掛け値なしの「自分史」です。自分史っていうと、たいていいろいろ計算して書きます。計算しないで書けるわけがない。ただその「計算」があまり目立たない本です。本当に好き勝手、トシヨリが適当に書いたよう。

そうか、子供の頃から絵が大好きとかいうわけでもなかったのか。高校に入って、部員一人だけの美術部に入部してしまった。芸大志望の先輩に「意匠科」を目指すといいと教えられて自分も芸大を志望した。3回落ちたという話はわりあい有名ですね。

仕方なく進学した武蔵野美大(ムサビ)が当時、そんなにマイナーだったとは知りませんでした。門外漢からするとムサビもタマビも同じような印象ですが、実際にはかなり差があったらしい。まともな教授もいないし、学生もろくなのがいない。躊躇せず「いない」と断言してしまうのが山藤さんです。

まともな就職も期待できない学校だったので、仕方なく自分たちで将来を工夫するしかない。で、在学時代からコンクールに挑戦。才能があったんでしょうね、次々と受賞。本人は「器用」と言っています。たいていの絵は描けた。業界の動きにも敏感で、できたばっかりのナショナル宣伝研に飛びついて入社。ここでも優遇されながら次々と賞を獲得。

デザイナーとしては羨むような順風満帆だったわけですが、ここで退社。指示されてデザインするんじゃなく、人から頼まれて絵を描くような人になりたかった。で、退社してから奥さんと「どんな方向を目指そうか」と相談したら、挿絵がいいんじゃない?と言われた。理由は、挿絵画家は名前を大きく掲載してもらえるから。作家が6とすると挿絵は4。なるほど。新聞連載なんかでも、作家と画家の比率はそれくらいですね。目立つ。賢い。

以後はもうみなさん承知の通りです。

ご本人は、後世に残る自分の仕事として「似顔絵塾」を推していました。ハガキ1枚の大きさで、しかも素人の書いた似顔絵の応募連載。才能の発掘。こんなに続くとは思わなかった。

蛇足ですが、うちの子供も小学1年か2年の頃に応募したことがあります。佳作。名前だけ乗せてもらいました。あはは。