「風さん、高木さんの痛快ヨーロッパ紀行」山田風太郎 高木彬光

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★★★ 出版芸術社
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昭和40年、音楽の友がバイロイトへワグナーを聴きにいくツアー募集。それに乗っかって高木彬光が友人山田に「行くか」と聞いたら、あっさり「行くよ」と返事がきた。グダグタ言わないところがいかにも風太郎。

で、団体旅行で行ったわけです。前年に海外旅行自由化になったばっかりで、仕事ならともかく、これまで遊びで海外へ行ける人なんていなかった。

小澤征爾が「音楽武者修行」に出かけたのが5年前の昭和34年、1959年です。日本の青年がスクーター持ってはるばる欧州まで行った。おまけにコンクールに優勝した。そんな時代だったから、本になったときみんなが感動したわけです。

で、昭和40年というとオリンピックも終わって新幹線も開通していました。外貨持ちだし制限が500ドルだったそうです。当時の固定レートで18万円か。もちろんこんな程度で足りるわけもないので、こっそり50万円ほど隠しもっていった。船でソ連のナホトカ、ハバロフスク、そこから飛行機でモスクワ。モスクワからアムステルダム、イギリス、フランス・・・・という大旅行です。ちなみに当時の初任給が2万円とかどっかに書いてありました。いまなら総額で600万か700万円くらいになるのかな。売れっ子作家だったから可能だったんでしょうね。

で、帰国の後、高木彬光は「飛びある記」とかいう旅行記を書いたらしい。そして実は未公表だったけど山田風太郎もけっこう詳細な日記を記していた。その両方を、なるべく同じ時系列にして、ページの上段と下段に置いた。ま、そういう工夫の本です。工夫は面白いけど、正直、かなり読みにくいです。本の装丁、作りもあまり感心しません。

内容はだいたい想像できるような股旅ドジ日記ですが、同じ出来事を二人の作家が違った視点で書いているのが面白い。仲がよかったとはいえ、よくまあ大きなケンカにもならず一月近く過ごせた。高木彬光は大食で行動的で熱い人のようですが、風太郎はご存じのように外界に無頓着で小食で冷めた人です。ただし冷めてるはずの風太郎も同室者のイビキでは怒り狂う。パスポートが紛失すれば、みっともなく狼狽する。このへんの落差が笑えます。

そうそう。なぜか風太郎がホテルの部屋のカギを開けようとすると、いつもなぜか開かない。相性が悪い。早々に諦めてしまって、以後はずーっと人まかせ。人がいなければメイドに開けさせる。誰もいなければ、仕方ない、部屋の前で待っている。横着な人です

ヨーロッパの街角で鉢植えの花をみかけた風太郎は「日本だったら誰かがすぐ持ち去る」と書いています。公園の鳩も人を恐れないのに感心します。日本だったあっというまに喰われてしまう。日本の狭い道路、都心の住宅の貧相さも嘆いています。

最近、日本人はみんなマナーをわきまえて、泥棒がいなくて外国人に親切で・・・・という種のお話が多いですが、ずーっと昔からそうだったわけではない。昭和40年頃はまだ戦後の延長。人心も完全には回復していなかったし、農協ツアーは世界でひんしゅく買っていました。ちょうど今の中国旅行客。過去を忘れて他人を笑ってちゃいけません。

このへん、考えてみると昭和40年から50年頃なんですね、生活が一変したのは。

あの頃、友人と安酒飲んでは「フランスに行きたいなあ」とか話していました。海外へ長期行くなんて夢のまた夢。もし片道チケット代と半年暮らせるくらいの金があったら、後先考えず日本を飛び出したかもしれません。三丁目の夕日の世界なんて、みーんな虚構、嘘です。日本は貧しくて息苦しくて、決して暮らしやすい国ではありませんでした。みんな汚くて腹へって貧乏だったなあ。