「岩倉具視」永井路子

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iwakuratomomi.jpg文藝春秋★★★★

これは掘り出し物。非常に面白い本でした。

副題が「言葉の皮を剥きながら」。なんのこっちゃ・・と怪訝でしたが、要するに手垢のついた「尊王攘夷」とか「佐幕」なんぞという便利な「言葉の衣」を剥がしましょうよということ。

誰だったか、この幕末のころの「尊王」は現代の「民主主義」みたいなもので、ま、多少の教育を受けた人間にとっては常識だったとか書いてました。したがって桂小五郎でも近藤勇でも清河八郎でも、言うことは同じ。みんな賛成はする。ただその「尊王」が意味するものはみんな微妙に違うでしょう。

現代、たとえば政治家も財界人もサラリーマン、右も左も「日本を愛する」とか言います。でもその言葉が意味するものは、たぶん違う。そういうことです。

したがって、便利な言葉を使って岩倉具視を説明することはやめよう。彼は「ヤモリ」なのか()。「ずるい」のか。「権力」を欲していたのか。「毒」を盛ったのか。

幕末。飾らない言葉で表現すれば、みーんな自分の欲得で活動していた。島津も毛利も水戸も幕閣も、みーんな必死になって権力拡充を画していた。それを後になって「天下国家のため」とか奇麗事にしているだけです。

下級公家の岩倉具視が必死になってもがく。献策やら提案やら、書きまくる。話しまくる。策動する。和宮降嫁で一度浮き上がって、それから命の危険を感じて逼塞。ながい閑居の末にようやくまた表舞台へ。

岩倉具視の天敵は中川宮だったそうです。例の長州追い落とし(八月十八日の政変)の花形。その中川宮が常に岩倉の前に立ちはだかっていた()。で、これを(岩倉村の蟄居先から遠隔で)ついに追い落として復権。薩摩と組んで維新の立役者となる。

正直、維新までは人形遣いの立場だったけど、明治になってからは人形になってしまったのかもしれない。本人は遣い手のつもりで踊っていた。しかし実際には大久保あたりが操作していたのかも。

 

単に色黒な容貌からついた名かと思っていましたが、ヤモリってのは日中は戸袋かなんかに潜んでいる。夜になるとコソコソッと出てくる。それで具視=ヤモリ。

中川宮は幕府加担とかいわれて失脚。ただの「朝彦」になる。新政府(特に長州)からすると仇敵です。やがてそのうち復権させてもらって久邇宮朝彦親王。そうか、昭和天皇に嫁いだのが久邇宮家の孫姫君。香淳皇后ですね。山縣有朋が結婚に反対したという宮中某大事件なんかも、けっこう深い理由があったのかもしれない。(根拠ないけど)